最近テンパりすぎて、周りのいろんなひとに迷惑をかけていてそれは当然非常にマズいわけなんだけれども、いろんなひとに助けられてなんとか生きています。「お力添えを!」とか図々しいことは言える身分ではないんですが、いつもありがとうございます。

 

 

いろんなひとというのは、もちろんFacebookとかmixi、Twitterでも繋がっていて、あらゆる角度から僕はその人格を晒しているということを意味している。友人だけじゃなく、上司や同僚、仕事関係全てに対してだ。僕のフィードは他人には全く有用ではないゴミな可能性だってあるのに。

 

 

ホントどうでもいいポストですね(笑)。僕の場合、Twitterは音楽系クラスタのほうが多く繋がってるので、Ust含む音楽番組とかトピックのほうが多いんですけどね。みたいなことを最近ずうっと考えてて、先日こんな文章に出会ってなんかハラオチした。

 

Pathが新しくなってちょっと盛り上がってたとき、10人くらいしかともだちいないときちょっと楽しいと思っていたけれど数日経つとfacebook経由で友だちがたくさんできてそれと同時にゴミのようなものばかり流れてくるようになってゴミになった。

ほかになにかないのかと、自分の中ではみんな綺麗な写真をpostしていて敷居が高いと感じていたInstagramをちょっと覗きに行ったら、憧れだったはずのInstagramもおなじようにfacebook経由でいつの間にかたくさんともだちができていてその結果どうでもいいようなものに埋もれていて愕然とした。それでロングテール – The Long Tail: なぜソーシャル・ソフトウェアは質の悪いレコメンデーションをするのかを思い出して読み直し(ページがなくなっていたのでarchiveから全文quoteした)、そしてこれが2005年に書かれたものなのに気がついた。

今になってやっとともだちがいかに場をだめにしてしまうかを体験として理解した。facebookのともだちリストに入っている誰もがももクロのライブにいっしょに行くのに適していないように、サービスによって当然ともだちになるのに適しているともだちは違う。

via not enough memory(for avant-garde ads)

 

結論としてはTumblr礼賛なんだけど、コレすごく核心をついてるよね。Pathって友人を見つけるためにFacebookから探すんだけど、それが逆に「本当に親しい友人」とだけ繋がるためのPathの理念とは相容れない微妙な問題になってる。とはいえ、コンテンツのキモになるのは友人のフィードなわけで、これはジレンマだ。

 

プラットフォーム毎の問題というのは、これまで使い方問題としていろいろ記事にはなってるよね。

・ブログ、Twitter、Facebook、mixi、Google+の違いを5つの観点から整理する

 

当然といえば当然だけど、ユーザーの態度に応じたコミュニケーションというものはやっぱあるだろう。更に言うなら、「Twitterストリーム型ですが、Facebookはストック型」云々より、類型化されたユーザーそれぞれの含有率だとかもあると思う。これはこれで深堀したい。

僕はあなたと繋がりたいけど、あなたは必ずしも僕と繋がりたいとは限らない。そのためにFacebookではUnsubscribe(購読停止)っていう機能がついてるわけだけど、何人が知ってるだろうか。僕は彼や彼女のフィードを読みたいし、僕のフィードにいいねやコメントもしてもらいたい。でも彼や彼女のニーズは実は別のところにあって、僕のことなんてどうでもいいしぶっちゃけ絡みたくないみたいな中2青春的な状況だってあるかもしれないのだ。

 

かわいい子はいつも違うやつに恋している。僕のほうがいいのに、って誰もが思うが、僕のほうがいいとは彼女だけは思わない。相思相愛は噂でしかなく、誰もが同じ世界の違う部分を見ている。好きなものは絶対に遠くにある。人間は遠くにあるものしか求めない。神様も、アイドルも、偉人も、音楽も、ネコも、あまりに遠い存在だ。キリストは地元ではただの大工の息子だし、出生した同級生の思想家は、自分の中ではケンカの弱い乾物屋の次男でしかない。あらゆる親は生きる事で、子供に影響を与えることができない。

ただ、人生にはちょっとした事故がおこる。それは「成功した恋愛」だ。「成功 した恋愛」は本来は遠くにあるものが近くにあるという異常事態だ。皆、この転倒にめまいがし我を忘れ狂い馬鹿になる。しかし、神様は利口なので、決して長くは続かないように仕組んでいる。

カメラに撮影された事物はすべて遠くにあるものだ。カメラは、子供も愛人も妻も愛犬も全てを同じ距離に遠ざけてしまう。だから人間は、写真の中の事物が好きだ。誰が撮ったどんな写真も、可能性として同じってこと、つまり全てはあな たのものだ。

とどのつまり、カメラの中の恋愛だけは、神様もどうすることもできない。

 

とてもいい文章なので長めに引用してみました。

この「あの娘ぼくがロングシュートを決めたらどんな顔するだろう問題」とは別ですが、つい先日、営業(女子)と喋っていて「Facebookで診断アプリたくさんあるけど、あれ度を超すとちょっと女子的にはウザイかも」っていう話をしていたのだけれども、診断コンテンツがソーシャルメディア上でウケるのって、気軽に参加できることよりもむしろ「自分ってこういう人間だよ!」という暗黙のアピール的な側面のほうが大きい。使うユーザー、つまり発信するユーザーからすると(意識しているかしていないかは別として)、承認欲求を満たすところに本質があるのかもしれないなあと思う。

それは言ってしまえば発信者側のロジックであって、受け取るユーザーのロジックじゃあないっていうわけ。

 

ソーシャル・ソフトウェア(つまりそれは僕でありあなたでもある)の質が悪い(もしくは悪化する可能性がある)というのは、多分この自己の承認欲求問題と関係しているんだろな。「自己の承認欲求を超越したシェアこそ崇高」みたいなこと言いたいわけでもないのだけど。いわゆる“キュレーション(笑)”というような言い方がフォーカスされるのも、ポジション取りとしてのソーシャルフィードっていうのに食傷気味なユーザーからのリアクション的なものだと感じる(こんな僕でもFacebookのフィード流してますけどね)。

とくに今日の記事、結論があって書いているわけじゃないけど、ああコレいま書いていて気がついたけど、もしかしてフォーカスするのが「ひと」なのか「インタレスト」なのかってことかもと思ったのだけれども、それもちょっと違うかなあ。そういう意味で、「あなたのリブログには興味があるが,あなた自身には興味はない」という先の文章は、リブログの意味するところを的確に捉えているなあと感じる。単純なポストではなく“リブログ”がソーシャル上で果たす機能って結構考える価値あると思う。

受け取る側のロジックで構築したメディア、というのがつくれたら面白いかもしれない。本来サービス開発はユーザー視点が原則というか当たり前なんだけど、ソーシャルで問題なのはユーザーあるときには発信するひとになったり、あるときは受け取るひとになるってことだ。何でもソーシャルにするこの風潮に一石を投じるとしたら、狙い目はそこかもしれない。解決したら、すごいメディアをつくれるかもしれないね。みたいな備忘録。

 

#ついしん

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