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Life of Pi / トラと漂流した227日 by Ang Lee

1960年代初めのインド ポンディシェリで生まれた少年パイ・パテルは、父が経営する動物園で動物たちと触れ合いながら育つ。ところが、パイが16歳になった年、両親がカナダ モントリオールに移住することを決め、家族と動物たちは貨物船でカナダへ向かうのだが、太平洋のど真ん中で突然の嵐に見舞われ沈没してしまう。たった一人、救命ボートにしがみつき一命を取り留めたパイ。しかし、そのボートにはリチャード・パーカーと名付けられた凶暴なベンガルトラが身を潜めていたのだった……。小さなボートと僅かな非常食、そして一頭のトラ。果たしてトラは少年の命を奪うのか、それとも希望を与えるのか・・・。パイと一頭のトラとの227日にも及ぶ想像を絶する漂流生活。

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古事記に出てくる神様の話を思い出した。

 

保坂和志は「小説、世界の奏でる音楽」という著書のなかで、小説の話をしながら大津栄一郎の「古事記 上つ巻」における圧倒的な「読み方」ついて引用しながら言及していて、すごく面白い。

 

天地〔あめつち〕の初発〔はじめ〕の時に、高天〔たかま〕の原〔はら〕に成れる神の名〔みな〕は、天之御中主神〔あめのみなかぬしのかみ〕。次に高御産巣日神〔たかみむすひのかみ〕。次に神産巣日神〔かみむすひのかみ〕。この三柱〔みはしら〕の神は、ともに独〔ひと〕り神となりまして、身を隠された。(古事記 上巻 天地開闢)

 

大津版に注の数字がふられていないのは、そんな量では足りないからだ。丸々引用したいのは山々だが、長くなるので、肝心のところだけ書くことにする。

まず「高天の原」だが、「神々が住む天上の世界」というような思考が勝った意味は、この説話が生まれたときにはなかっただろうと推論する。少し時代がくだって阿部仲麻呂が「天の原ふりさけみれば……」と歌ったように、「天の原」とは空のことであり、それに「高」がついているのだから「高天の原」とは「高い空」という程度の意味であろう。そこに神が「成られる」わけだが、「成る」とは「なかったものが在るようになる」ことである。それゆえ、ここでは、空に「忽然と現れる」ということになる。説明の都合上、おわりの「独り神となりまして、身を隠された」にいったん飛ぶが、「独り神」を『古事記』にたくさん出てくる対偶者(イザナギ、イザナミなど)を持たない神と解釈するだけでは十分な意味をなさない。「独り神」とは後継者がいない「このときだけ姿を現された神」ということなのではないか。そして、その神は、すぐ「身を隠された」。

 

「高天の原に成られて……独り神となりまして……身を隠された」とは、「空の高みにふと神が見えたような気がした。」ということを言っているのではないか。それは、今日的な言葉で言えば、〝心のひらめき〟〝観念の誕生〟を伝えた表現ということになる。つまりこれは、我々の先祖が心を得た瞬間を伝える説話なのである。では、我々の先祖がはじめて得た観念とはどういうものであったのか。その中身が、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神である。天之御中主神〔あめのみなかぬしのかみ〕とは「空のまん中の大人〔うし〕」であり、「頭上の、なにもない、広がりは、空である。」ということを認識したということであろう。つまり、我々の先祖が空という観念を得たことをここで伝えている。

<中略>

このようにして著者は、つづく二神、「宇摩志阿斯訶備比古遅神〔うましあしかびひこぢのかみ〕」は、「植物は発芽し成長する」という認識、あるいは成長という観念であり、「天之常立神〔あめのとこたちのかみ〕」は「天の床は確固と立っていて、天が落ちてくることはない」という確信であると推論する。そして読み下し文はこうつづく。

 

この二柱〔ふたはしら〕の神もまた、独り神となりまして、身を隠された。上〔かみ〕の件〔くだり〕の五柱〔いつはしら〕の神は、別天〔ことあま〕つ神〔かみ〕である。

 

「別天つ神」とは何か。それは「異なる天つ神」「別の類の天つ神」であり、一度だけ姿を現して、その後二度と姿を現さなかった点が共通している(高御産巣日神と神産巣日神は、後の高天の原での本話にも登場するが、そのときには子孫があるので、ここでの二神とは違う、現〔うつ〕し世の神である)。つまり、ここに書かれた五神は現し世の神ではない神であり、観念としてだけ存在している神のことだ――というか、観念そのもののことだ。それが「別天つ神」と呼ばれた所以なのである。- – 保坂和志「小説をめぐって 31 中編」(小説、世界の奏でる音楽 192p)

 

 

僕らは普段、神様というとギリシャ神話のようないわゆる「現し世の神(ひとのカタチをした神様)」を想像しがちだけど、古事記の天地開闢に出てくる最初の神は、認識や観念そのものを指しているという。「あの頭上の空間は何も無い訳ではない、空という空間そのものがあるのだ」という観念を発見した瞬間、それ自体が根源的な神様の正体というわけだ。

 

そんな寓話の話をふと思い出したのは、映画を観たからなんだけれども、その「Life of Pi」はYann Martelの冒険小説を映画化したもの。ちなみに、この原作はイギリスのブッカー賞を受賞してる。

 

ざっくり書くと、トラと少年が漂流するお話。

 

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ストーリーは漂流生活を生き抜いて大学講師を務めている主人公、パイ・パテルとパイの冒険譚を取材に来た小説家のやりとりで進行していく。

 

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本名「ピシン・モリトール・パテル」の生まれた話から始まり、何故「パイ」と呼ばれるようになったかを語っていく。パイは無宗教で父の経営する動物園で育ち、母からはインドの神々の話を聞いて感受性豊かな少年となって成長していく。インドの神々はもちろん、一神教のキリスト教や他宗教の信仰にも触れていくなかで、想像力豊かな青年になっていく。

 

 

 

16歳になった主人公は家族で移住するためにカナダへ行くことに。一家と動物園の動物達(しかもそれらは売却される予定のだ)と乗り込んだのは日本船。これは明らかにノアの方舟だ。

 

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ここで僕らは、この映画自体が神話であることに気付く。方舟が沈没してしまうという違いはあるけど。

船が沈没し、救命ボートに乗って漂流するパイ。オランウータン、ハイエナ、シマウマはいくつかの理由で死んでしまい、最後の相方は動物園にいた「リチャード・パーカー」という名のベンガルトラだけに。

 

漂流する先々で出会う美しいシーンがとてもキレイで良かった。

 

 

主人公も最後に言うのだけど「これは神の話」であり、主人公が出会う神という瞬間が何層も重なってできた冒険譚。パイが成長するために経験した人生そのもの。だからパイの語る人生、それ自体が寓話、物語なのだ。

 

日本上映の宣伝は割と漂流することがメインに語られていて、観るまでは「よくある冒険小説の類いかな」と舐めきっていましたが、猛省するほど良い映画でした。漂流することにフォーカスするんじゃなくて、原作タイトルにもある通り「パイの物語」という部分にフォーカスしたほうが、もっと制作者の意図が良く伝わったんじゃないかな、と残念な気もします。

 
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何だかよく分からない文章になりましたがオススメです。

 

 

あと、古事記読んでみたいと思った物好きな方はこちら。