社会学の著作集や、批評家の評論を読んだりするのは面白い。
学生の頃は、そういう本は小難しい顔をして読むもんだと勝手に思っていたし、事実たぶん周りから見ればそんな感じで読んでいたんじゃないかなっていう気もする。
でも大人になってからは、書籍化されたブログか何かだと思って読んだほうが、よっぽど面白いことに気がついた。小林秀雄だって、いま生きていればアルファブロガーになっていただろう。アフィリエイトとオンラインサロンを通じて、はあちゅうを凌ぐ勢いでガンガン稼ぐ「小林秀雄」。そんな彼も見てみたい。
広告の仕事をしていて、プロモーションの戦略やコンセプトについて考えるとき、そういった評論家の眼差しはとても役に立つ。「掃除する」とはどういうことなのか、「コーヒーを飲む」とはどういう行為を意味しているのか。世界を新しい切り口で読み解いていく達人の文章には、発見があって面白い。
プロレスする世界
大学の頃に買って、未だに本棚に置いてあるものもあって、「やっぱりぶっ飛んでるな」と思うのはロランバルト(Roland Barthes)だ。ロランバルトはフランスの哲学者であり、批評家だった。僕の部屋の本棚には、学生の頃に買った著作集の「3:記号学への夢」「4:現代社会の神話」がある。
とりわけ「現代社会の神話」はとても面白い。なんたって、最初の一節目のタイトルが「プロレスする世界」だ。プロレスの世界ではない。この本のなかでは、世界がプロレスしてしまっている。
プロレスの美点は、それが過度なスペクタクルということである。そこには・・・(中略)・・・影のない光が、屈折のない感動をつくりあげるのだ。
こいつ、ぜったい初めてプロレス見たな。という興奮を感じさせる一文から始まり、プロレスは古典劇と同等の構造、つまり“スペクタクル性”がそこにあるという。そして、こう続いていく。
もちろん・・・(中略)・・・役に立たない見せかけだけの、偽りのプロレスもある。それにはなんの興味も湧かない。真のプロレスは、不当にもアマチュアのプロレスと呼ばれ、二流のホールで開催されている(以下略)
ロランバルト曰く、二流のやつこそがホンモノなんだぜ!ということらしい。これはあれでしょ。絶対プロレス好きの友達から、公演が終わったあとにレモンチューハイとか飲みながら吹聴されたパターンでしょ。「AKBは研究生も見所があって奥が深い」みたいな感じがムンムンしており、この始まりの2段落だけでも読んでいてかなり趣深い。
そのほかには、ちゃんと技の解説もしており、
もうひとつ、押さえ込みより、さらにスペクタクル性の強い形象がある。それはチョップだ。
という調子で、「いや〜何がいいって、チョップがいいんスよ」みたいなことまで書いていて、プロレスのチョップだけでここまで解説できるのは、日本の辻よしなりかフランスのロランバルトか、と言っても過言ではなかろう。周囲に読書好きがいないので、この面白さを紹介することができないのが、とても残念だ。
The medium is the message.
ロランバルトのような、純粋な楽しみとしての読書、というのと平行しつつ、最近はちゃんと広告のことをイチからならぬゼロから勉強し直そうかなと思っていて、そんななか読んでいるのがマクルーハン(Herbert Marshall McLuhan)だ。
マクルーハンはメディア論を60年代ぐらいから説いていた文明批評家で、ロランバルトとちょうど同じぐらいの世代でもあって、「メディアとは、メッセージである」という言葉が有名。90年代ぐらいに再度ブームになったこともあり、解説本もたくさん刊行されています。
マクルーハンの書く文章もとても面白くて、そこはかとなく漂うロランバルト性を感じずにはいられない。
すべてのメディアは、われわれのすみからすみまで変えてしまう。それらのメディアは個人的、政治的、美的、心理的、道徳的、倫理的、社会的な出来事のすべてに深く浸透しているから、メディアはわれわれのどんな部分にも触れ、影響を及ぼし、変えてしまう。
という調子だ。そして、次の一文。
メディアはマッサージである。こうした影響としてのメディアの作用に関する知識なしには、社会と文化の変動を理解することはできない。
さらっと進んでしまいそうな文章のなかに、こういうのを入れてきてしまう感じが好きだ。メッセージじゃないのかよ。マッサージに関する言及はしないのかよ。
マクルーハンの文章はアフォリズム(箴言)というか、一風変わったメタファーが多くて、ミスティカシオン(神秘主義)を漂わせるのが巧い。巧いというのは、謎めいた印象で逃げている、ということではなくて、それによって議論を誘発させるような意味生成的なテキストということだ。その証拠に「is the mass media」「is the mass age」などの言い回しを連発する。いろいろ口に出して、弟子とかと試行錯誤していたのかなと思うと、それはそれでユニークな研究室だったんだろうなと思う。
そういう観点からすると、読者に対して意味が開かれたテキストという言い方もできるかもしれない。だからこそ、メディアに関する(とは言っても、マクルーハンの書く“メディア”の意味は広範囲だ)様々な視座を与えてくれる。
また、謎めいた文章から「こんなもの科学ではない」とも批判するひともいたせいか、後世には「俺の考えた最強ロジック」みたいな感じで、テトラッド(Tetrad)という謎理論を持ち出したりする感じも良い。テトラッドによれば、メディアを考察するには4つの問いかけからその正体をあぶりだせるんだそうだ。その4つとは「衰退」「強化」「回復」「反転」であるという。例えばこんな感じ。
カメラはプライバシーを「衰退」させる
カメラは(使用者の)攻撃性を「強化」する
カメラは現在としての過去を「回復」させる
カメラは公共の所有物(パブリック・ドメイン)に「反転」する
カメラという機械は、本来は風景をそのままフィルムに写し取るためのものだ。ただ、そのモノとしての性質の他にも、カメラのコトとしての性質は4つに分類できる。
カメラで撮影するということが世の中に浸透していけば、撮影される側にとっては、写真に写り込んでしまうことそれ自体が危機的な状況を生み出す可能性がありうるし、それを見越して「撮影する」という行為そのものが、対象への攻撃手段となりうる。また撮影されたものが長く保存されることが一般的になればばるほど、僕たちは遠い過去の記憶を目の前に呼び起こすために写真を使うだろう。そして、所有者の手を、時間的・空間的・ソーシャルメディア的に離れた写真は、最終的にパブリックな記憶になっていく。とまあ、そんな感じだ。
仕事をしている肌感として、50代半ばから60ぐらいの重役のひとたちはこういうのが大好きだ。浅田彰の「構造と力」とかの世代なのかもしれない。ただ、本当にマクルーハンのメディア論を読んでいるひとは、クライアントサイドでは意外と少ないかもな、とも思う。筍のように沸いてでてくる何とかマーケティングより、よっぽど面白いんだけどね。