東京都現代美術館「クリスチャン・ディオール、 夢のクチュリエ展」を見てきました。結論から書くと無茶苦茶良かったです。
東京にいるメリットは都会だからということも大きいわけだけど、それはつまりところ、いろんなところで美術展示や企画展をやっていてフラっと行けるというところに尽きる。
普段着ているものはUNIQLOかアウトドアウェアの2択なので、当たり前ですがハイブランドの洋服を買ったことなど皆無。ですが、そうしたブランドがどういった思想で洋服というかモノづくりをしているか、という観点から見るとものすごく身近というか、勉強になる企画展だった。
特に興味深かったのが日本でのビジネスをどうやって進めていったかという資料展示。
ディオール本部でつくられたパターンを日本にもってきて、国内で生地を裁って縫製していたらしいのですが、1950年代当時の針子さんが残したメモ書きが無茶苦茶良かった。
「型紙のままこのパターンを切ってしまうと、布の幅が足りないので継ぎ足しました」とか「本来は〜ですが1枚たしました」とかかなり細かい試行錯誤を国内でやっていて、ディオール自身もそれに感銘を受けていたらしい。
仕事で動画やデザインを制作していて、「ここまで細かい指示を出すべきか否か。。。」と躊躇してしまうことはよくあるわけですが、ハイブランドはその躊躇すら許さない、妥協しないみたいな意志を感じてしまい、普段ゆるゆるな自分が恥ずかしくなってしまいました。
歴代のディオール・ディレクターたちの手がけたコレクションも展示されていて、残したスケッチや生地のサンプル、それぞれの目指したコンセプトなど、服好きでなくても楽しめる展示になっていて、クリエイティブ畑でないひとにもオススメ。
その他の展示も凝っていて、ディオールの考える色とトータルコーディネートの考え方や、名作の香水やその広告、表紙を飾った雑誌などPR文脈でも読み解けるというコーナーも。
もちろんハイブランドならではのドレスも見応えがあって、舞踏会向けの作品を集めたコーナーでは変化するライティングのなかで展示がされていたり、各時代のディレクターがインスパイヤされたテーマ(アフリカ、ギリシャ、などなど)別展示など、展示方法だけで見てもとても贅沢な企画展示でした。
個人的に一番感動したのが「アトリエ」のコーナー。たくさんのモックアップが真っ白な生地で展示されていて、そのモックアップ一つひとつにも、完璧な曲線やラインを目指すための殴り書きが書いてあったり、パターンから起こすときの断ち切り線などもそのまま見ることができて、こだわりが感じられるコーナーでした。
気づいたら18時の閉館時間になっていて、入ったのが16時だったので120分たっぷり見たことに。行かれる方は3時間ぐらい余裕をもって見る想定で臨むと良いのではないかなと思います。
会場を出たところにある年表を見ていて「なんかこいつベンチャーみたいな生き様ですごいな」と、また感動。1946年に企業して1948年にNY、1953年に日本進出ってことは2年で海外、9年で日本進出か〜やべえな。
1905 | 1月21日、フランスグランヴィルにてアレクサンドル=ルイ=モーリス・ディオールとマリー=マドレーヌ=ジュリエット・ディオール夫妻の間に誕生。生家の玄関には、母マドレーヌの好みで日本画が描かれていた。 |
1910 | 一家でパリ16区に移り住む。 |
1923 | パリ政治学院に入学。美術や建築に関心を寄せていたが、両親の希望で外交官を目指す。 |
1928 | 友人ジャック・ボンジャンと共同でラ・ボエシ通り34番地に画廊を開業。1931年まで運営。 |
1931 | 母マドレーヌ死去。父の事業が、投資の失敗により破たん。 |
1932 | ピエール・コルとカンバセレス通り29番地に画廊を開業。 |
1935 | ファッションアーティストとして経験を積む。婦人用の帽子メーカーや「ジャンパトゥ」「スキャパレリ」「ウォルト」「モリヌー」「パキャン」などのメゾンドクチュールにデザイン画を売り始める傍ら、新聞『ル・ フィガロ』や雑誌『ジャルダン・デ・モード』のイラストレーターを務める。 |
1938 | ロベール・ピゲにデザイナーとして雇われる。ピゲのためにデザインした“Café anglais (カフェアングレ)”ドレスが大人気となる。 |
1939-40 | 徴兵から復員後、南フランスのカリアンで父と妹と暮らす。 |
1941-46 | 「リュシアンルロン」でデザイナーとして働き始める。 |
1946 | 実業家マルセルブサックの後援を得て、ディオールの名称でクリスチャン ディオール クチュールを創設。12月16日、パリ、モンテーニュ通り30番地に本店を開業。当時の建物は、3つのアトリエを構え、85人の従業員を有していた。 |
1947 | 2月12日、初の春夏オートクチュール コレクションで、Corolle ラインと8ラインを発表。興奮した記者が「ニュールック」と絶賛。香水部門としてパルファン・クリスチャン・ディオールが創設され、幼なじみのセルジュ・エフトレー・ルイシュがディレクターに就任。12月、初の香水となるMiss Dior発売。 |
1948 | ニューヨーク5番街にクリスチャンディオールニューヨークを開業。 さらに同じ年、パルファン・クリスチャン・ディオール のニューヨークオフィスも設立。 |
1949 | 香水 Diorama 発売。 |
1950 | ファッションや繊維業界への貢献が認められ、仏レジオン・ドヌール勲章を受賞。 |
1951 | ディオール社の従業員数が約900人に達する。初の著書『Je suis couturier』(邦訳1953年)を出版。 |
1952 | ロンドンにクリスチャン ディオール モデルズ リミテッドを設立。 |
1953 | パルファン・クリスチャン・ディオール初のメイクアップラインとなるリップスティック8色のコフレ発売。Eau de Cologne Fraicheを発売。大丸および鐘紡は、クリスチャン・ディオールから提供されたパターンをもとに、両社の布地を使用した衣服の製造販売をする契約を締結。10月13日~27日、大阪、神戸、京都、東京で大丸の製造による衣服を披露。11月、1953年秋冬オートクチュール コレクションのショーを東京、大阪、京都、名古屋で開催。日本において海外のオートクチュールのメゾンがファッションショーを行った初の事例となった。 |
1954 | 著書『The Little Dictionary of Fashion』 をアメリカ・イギリスで出版 (邦訳1955年)。 歌劇「La Entrada de Madame Butterfly』でバレリーナのマーゴ・フォンテインの衣装をデザイン。1954年秋冬オートクチュールコレクションで、龍村美術織物による日本の染織物を使った新作“Tokio (東京)” “Utamaro (歌麿)” “Rashomon (羅生門) ”を製作。 |
1955 | イヴ・サンローランをデザイン助手に迎え入れる。8月3日、パリのソルボンヌ大学で講演とファッションショーを行う。 |
1956 | 自伝『Christian Dior et Moi』(邦訳 1958年) 出版。香水 Diorissimo 発売。俳優の京マチ子がパリのパルファン・クリスチャン・ディオールのブティックを訪問。 |
5月28日までなのでまだ余裕はありますが、予約が全然できないので土日は諦めて平日に休みをとって1ヶ月前には予約しておくのがオススメです。