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ちょっと思うことがあったので、mixi日記から備忘録として転載。
小説は、その書き出しで全てが決まるという人もいるらしいのだけど、終わり良ければというひともいて、けっきょく小説は一文一文が小説として成り立っているものだという気もして、よく分からないのだけれども、僕としてはパッと開いた一文がとても小説だったらそれは嬉しいことだ、と思うようにしています。
Philip Kindred Dickは「流れよわが涙、と警官は言った」を一気に書き上げたあと、登場人物と同じ名前の女性と知り合ったそうだ。そして弟の名前も同じだった。恋人の名前も一緒で、警察本部長の名前、何もかもが同じだった。
しばらくして、彼は手紙を出しにでかけた。すると車の外に危ない男がいる。普段ならしない。でも、「どうかしましたか?」果敢に声をかけるとガス欠らしい。そしてお金を渡して家に帰った。
帰ってみて気付いた「そうだ、あの男はガス欠なんだからお金があってもガソリンスタンドまで行けないじゃないか!」ということで、彼はその男のところへ戻りガソリンスタンドまで連れて行って気付いた。「これもオレの本のなかにあるぞ。同じ男、同じスタンド。そのままだ」これはどうも気味が悪い。だからディックは牧師に相談した。自分が小説をどうやって書き上げたか、その4年後どうなったか。すると牧師は行った「それは使徒言行録だ。使徒言行録の内容そのままだ」ディックは読んだことないと言った。
それから家に帰って使徒言行録を読んだ。そしたらもう、ぞっとした。使徒言行録は西暦50年に書かれたらしいけど、たぶんその頃のことを書いてる。だからフィリップ・K・ディックはこう考えた。「時間は全て幻想で、僕らはずっと西暦50年を生きてる」
でもグレゴリー夫人はこうも言ってる、グレゴリー夫人はイェイツのパトロンだった。アイルランド人だ。「宇宙の本質を教えてあげましょう」
「時間についてフィリップ・K・ディックは正しい。でも西暦50年は間違いです。正しくは、ただ一瞬が合っただけ。それは今であり、永遠なのです」時間を人生になぞらえるひともいるけれど、それは多分ナンセンスだ。少なくとも今の自分にとっては。だから僕はこう考えることにしてる。「フィリップ・K・ディックやグレゴリー夫人にとっての時間はとても小説的で、美しい。だけど僕はこの先のことも考えることはできるはずだ。ただし、未来を軸にするなら僕らの『イエス』か『ノー』か、その選択は“いま”しないと意味がない。選択を保留することもできる。でもそれはこの瞬間に存在しないのと同じだ」