資料にでもと思って、昔のフォークソングでいい曲がないかなって調べた途中で、懐かしい曲を見つけてしまった。
大学の頃、部室で先輩たちが聴いていた岡林信康の曲だ。
岡林信康が、ビクターからこの「私たちの望むものは」を出したのは1970年。ちなみにビートルズが初来日したのは1966年で、そのさらに4年前。
この時期になると、もう「フォークの神様」ではなくて「ロックンローラー」という感じがして、なんだか曽我部恵一のようにも見える。
バックバンドは当時まだ無名の「はっぴいえんど(細野晴臣・大瀧詠一・松本隆・鈴木茂)」だったらしい。12インチのジャケットは見つからなかったけど、「見るまえに跳べ」というこのアルバムもロックな感じがしてかっこよい。
私たちの望むものは、生きる苦しみではなく
私たちの望むものは、生きる喜びなのだ
私たちの望むものは、社会のための私ではなく
私たちの望むものは、私たちのための社会なのだ
私たちの望むものは、与えられたことではなく
私たちの望むものは、奪いとることなのだ
私たちの望むものは、あなたを殺すことではなく
私たちの望むものは、あなたと生きることなのだ
「私たちの望むものは」という歌い出しはとてもインパクトがあるし、ロックな声も相まって、何だか独立宣言をしてるようにも聞こえる。続くBメロの部分はこうだ。
今ある不幸にとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ!
未来に対しての強烈な期待感みたいな勢いがとても好きだ。
ところが、それが曲の後半では全く逆さの文章になっていく。
私たちの望むものは、生きる喜びではなく
私たちの望むものは、生きる苦しみなのだ
私たちの望むものは、あなたと生きることではなく
私たちの望むものは、あなたを殺すことなのだ
物騒な話だ。喜びではなく、苦しみが望みだとか、生きることではなく、殺すことが望みだとか。でもこれはこれで、社会の望みはある種コインの裏表みたいな関係なのかもしれない。だから最後にくるBメロが、また違った意味に聴こえてくる。
跳び立つのは、何か特定のものに対して扇動しているわけでもなく、それぞれの幸せに跳び立つというもっとスケールのでかい話なのかもしれない。
今ある不幸にとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ!
岡林信康が社会全体のなかで広がっていく最中というか、肥大する大きな“私たち”を歌っているのに対して、曽我部恵一の歌う“私たち”は深夜のコンビニにサンダルで向かうようなラフな感じだ。
https://www.youtube.com/watch?v=QsqkjM4mPB0?t=24s
ちなみに、1970年のその頃、ビートルズは「I’ve Got A Feeling」を歌ってた。
時代によって、“私たち”とか“私”の定義は、ちょっと違うのかもしれないと思う。