広告のクリエイティブというのは本来、たくさんの人的リソースと、多くのパートナーさんの資産協力をもってして作り上げる、いわば総合芸術みたいなものだ。だから、一度にたくさんのクリエイティブ制作を行うには、プロモーションのコンセプトそのものが大量制作に見合ったものであることと、豊富なリソースが不可欠。

広告業界では、ほんの数秒の映像をつくるために、これだけの人手がかかっている。

こういったレガシーな制作フローとは別に、最近の仕事上でのマイブームは「無駄に最新技術を使う」というもので、近年類を見ない盛り上がりを(僕のなかで)見せている。その最たる例がCGだ。

PS4でゲームをやりこんでいた時期があって、それはPodcastでも喋っていたりするのだけれども、まあリアルなこと。部屋や見慣れた空間だと正直まだまだ及第点だけど、自然とか細部に目がいかないものに関しては、CGのアセットを使ったほうが段違いにできる幅が広がる。これは制作本数が必要なウェブ広告にはかなり重宝される考え方だと思う。

CGというのは無限に広がる撮影スタジオのようなもので、まったく同じ動きをしているだけでも、カメラワークさえ変えてしまえば、全然違う意味のカットにするのも簡単だ(そこまで作るのが大変なわけだけど)。「CGと実写ではやっぱり違うものがある」というひともいるけれど、その差も正直時間の問題なんだろうなと僕は考えていて、そのへんのモデルを使うよりも、CGモデルを使ったほうが全然可愛いじゃんみたいなケースもちらほらで初めてきている。

以前はかなり高価な技術だったものが、最近ではかなり使えるレベルまで技術が普及してきている。例えばCGモデルのsayaとかが良い例だ。

CGで重要なのは個々の技術(モデリング、骨、テクスチャ、動き、ライティング)と、それらを統合的に管理すること。あとは最終的な書き出し、つまりレンダリング速度。これさえクリアできれば、数年後にはモデルはほぼいらなくなるだろうと。完成度の高い「一人」をつくるのに時間がかかるというひともいるけど、2Dレベルなら「存在しない顔」を大量の顔データから合成する技術はすでにある。処理速度は上がっていくし、人の手による職人的な作業も、あと数年でAIがやってくれる時代が来る。

技術というのは組み合わせでジャンプするものだ。

実際動いているのを見ても、数年前ほど違和感は無いし、たどたどしく喋ることはできるので、人間に寄せられるのも時間の問題かなと僕は思う。静止画で見ると本当に写真みたいだ。そうして「見るもの」の自然と人工物の垣根はますますなくなっていく。

海外ではInstagramアカウントで「実はCGでした〜」みたいなプロモーションもけっこうある。現状で最もリアルなのは黒人モデルのShuduだ。黒人特有の肌のテクスチャが、CGやファッションフォト特有のフィルターとあいまって、これはこれでかなり雑誌の表紙っぽい。

というわけで、自分で担当している制作物に占めるCGの割合を徐々に高めていきたいなあと常々感じていて、実際しれっとCGでつくっているものを入れていったりしている。「ITだけど広告」という特殊な会社にいるせいか、こういう最新技術動向みたいなものはチェックしながら、絶妙なタイミングで案件に導入するということを常に意識はしています。そのときに重要になるのが「実現までもっていけるスキルや人脈を、いま自分はもっているのか」という点だ。

 

広告業界問わず、ビジネスの世界では「フィジビリティ(Feasibility Study)」という言葉がある。フィジビリティというのは日本語で訳すなら「実現性」。所与の予算やスケジュールに対して、コスト・技術・制作期間・クオリティ、様々な角度から「プランを実現することは可能か?」を調査・検討していく作業だ。

技術として知っているということと、実際に実現までもっていけるか、というのは天と地の差がある。広告界隈でもコンサルっぽい思考パターンのひとは、大きな風呂敷に大きな戦略を描くのが仕事なので、実際のプランやアイデアの良し悪しを判定できなかったりする。逆に、コミュニケーションを主戦場にするプランナーは、ビジネスには弱い(強いひともいるけど、それはレジェンド級のひとばかりだ)なんてこともある。

IT界隈のひとは普段テクノロジー関連の最新情報をいつも見ているから、「これとこれを組み合わせれば、このプロモーションアイデアは実現できそうだな」というアタリはつけられる。ただ、実際に受託案件として責任をもって実現させられるか?っていうことになると、話は別だ。広告プロモーションには予算も納期も、クオリティの最低ラインだってある。

先日こんなことがあった。

プロモーションの相談で、外部のパートナーさんにちょっとしたシステムを依頼しようと思っていて、その話を社内の人間にぽろっと喋ってみたところ、そのひとは

あそこのはあんまり大したこと無いですよ。中身は結構簡単なんで。

と言っていた。こういうケースというのは実はよくある。こういうケースというのは「あそこのはあんまり大したことない。どこでもできる。うちでもできる」という回答をするひとのことだ。社内で何度も修羅場をくくってきている僕にとって、こういう言葉が一番危ないと思ったほうが良いシチュエーションだ。

責任を持って開発できるかとか、世に出したときのパートナーの社名のインパクトとか、そういうあらゆる観点から一周して考えて外注しよっかなという結論に達しているわけで、「技術的にできるかどうかの確認」だけをすることに意味は無い。「自分のもっているリソースで規定のコスト・納期を守って実現できるかどうか」を確認しているわけであって、「実際に仕組みを知っているか」自体には興味が無い。むしろそれは最新動向として皆が知っておくべきことで、議論の対象にはなり得ないのだ。

最近だと「デザインが好きです」というひとも多いけど「デザインが好き」ということと「デザイン的な思考ができる」ということは根本的に意味が違う。日本でデザイナーの地位が上がらないという記事をどっかで読んだけど、実際の問題は「デザイン的な思考ができる」という本来の意味のクリエイターが少ないからじゃないんだろうか?なんて感じる。これはAIとか、IoT、テクノロジー全般にも言えることだ。Twitterのプロフィールに「テクノロジー好き」と書いてあることと、実際にコードを書けることというのは全くベクトルの違う話なのだ。

 

最後に。

昨日、役員の方が会議で言っていたことがとても真理だった。

お前ら肩書きとか凄い作品つくるとか言ってるけど、そういうんじゃねえんだよ。もっと自分で手を動かして大したことないものが生まれてくるカオスな感じから、何か生み出してみろよ。

さすが偉いひとともなると原点への還り方がアグレッシブだなあと感動しました。