グローバリズムの正体?

大学に入ってから一番驚いたのは「グローバリズムが良いものかどうかは、まだ分からない」と、いろんな教授が言っていたことだった。経済学部に入って本当に良かったなと思うのは、何について考えるにせよ、そういった複眼的なものの見方をしないとダメだよ、という基礎中の基礎を身に着ける癖がついたことかもしれない。

海外ではグローバリゼーションに対する風当たりは厳しい

僕は確か、中学や高校では「これからの日本は外国とどんどん交流をしていって、結果ええ感じになる。これがグローバリズムだ。だから英語を喋れるようにならないといけない」と教わったはずだった。海外産のオレンジやお肉がグローバル化の影響によって安価に入手できる世界は、確かに素晴らしいのかもしれない、ぐらいになんとなく思っていたのだけれども、それはグローバリズムという現象を数%ぐらい説明しているに過ぎなかったらしい。

経済学の基礎知識には、「国と国が貿易を行うときは、お互いに得意な産業を分業して貿易するほうが、結果として世界全体の生産性が高くなって世界が幸せになる」という理論があって、これはデヴィッド・リカードの比較優位論というんだけど、だからグローバリゼーションは良いものなんだと皆は言う。ただ、この理論は理論上そうなるってだけで、実際にはそういう結果にはならない。

例えば、この理論には戦争や他国への経済的支配といった、国家の政治的な側面が一切考慮されていない。Aという国が食糧を、Bという国が工業を担当していたとして、成り行きで戦争に強くなったB国はAという国に侵攻して属国にしてしまうことだってあり得る。また、「世界の生産性が高くなる」という言い方にも少し語弊がある。生産性というのは、投入した資本に対するリターンなわけだから、独占市場をつくって売価を吊り上げてしまえば見た目上の「生産性」は高くなるはずだ。企業が何か商品やサービスをつくって販売している状況で、「売値を吊り上げたので収益が増えました」となったとき、その市場では「最大多数個人の最大幸福」は実現されたと言えるだろうか。

経済学は経済主体を性善説で考えがちだけど、実際そんな企業はほとんど無い。だからグローバリズムという単語を語る際に僕らが気をつけないといけないのは、実際に何が起こっているのかなのだ。実際に起こっていること、つまりそれは多国籍企業の寡占市場であり、持株会社と化したIMF(国際通貨基金)の腐敗、エネルギー・資源メジャーによる資源価格の価格吊り上げだったりする。このあたりはノーベル経済学賞をもっているジョセフ・E・スティグリッツなんかの書籍がとても面白い。

グローバリズムというのはつまり、実態としては、多国籍企業の海外進出・海外市場の支配を擁護するための口実に過ぎない。

ここ20年でいろんな企業がCSR(企業の社会的責任)やサステナブル(持続的成長)といった言葉を口にし始めた。でもそれって、心の底から地球を守ろうと思っているわけじゃなく、市場の崩壊によるダメージと自社の利益を天秤にかけた結果だよね。単にグローバリズムがもたらした焼畑的な経済活動に対する免罪符というか、そういうものとして使われている気がしてならない。

営利企業のアルゴリズムがもたらしたもの

グローバリズム呼ばれるものの実態が何なのか知っているひとは少ない。そんな高尚な話がニュースに登場する日は少ないし、ニュースになったとしても理解しようとするひとは残念ながら少ないだろう。何故ならそれは、一見すると自分の生活に直接関係のある話題でも無さそうに見えるからだし、メディアも営利企業なので視聴者の共感を得られないコンテンツを制作する動機付けは薄い。かくして僕ら一般市民は、真実からいつも遠ざけられてしまっている・・・というような妙な状況がここに完成してしまう。

ウェブメディアだって例外じゃない。ユーザーが最も滞在するように、最も他人の投稿にアクションするように、コンテンツが配信されていくシステムは、メディアにとって広告配信と表裏一体なので、収益に貢献する一方で、僕らの頭はどんどん凝り固まっていっていないだろうか。自分と同意見ばかりにリアクションしたり、対立する過激な主張に苛立ち、自分こそ正義だと信じていないだろうか。正直、最近の僕は自分が必ずしも中立ではないことを気にしていたりもするのだ。

悲しいことに、この世の中に溢れる情報は全て、そうした編集やキュレーションが介在している。そんな世界で常に冷静でいることは、とても難しい

編集する権威が崩壊した世界で

物事にはいろんな視点があるし、時には嘘の報道だってあり得る。無傷のサンゴに傷をつけて報道した朝日新聞(朝日新聞珊瑚記事捏造事件)という事例もあるし、TV番組は「コロナ禍でも人手の多い商店街」とセンセーショナルに伝えるために、望遠カメラで印象操作をすることだってある。

僕らはずっと、新聞を読みなさい、ニュースを見て世界を知りなさいと言われてきたわけだけど、それって信じるに足る存在なのだろうか。

こんな話もある。

ナイラ証言(Wikipedia)

ナイラ証言とは、「ナイラ」なる女性(当時15歳)が1990年10月10日に非政府組織トム・ラントス人権委員会(英語版)にて行った証言。イラクによるクウェート侵攻後、「イラク軍兵士がクウェートの病院から保育器に入った新生児を取り出して放置し、死に至らしめた」、その経緯を涙ながらに語った事で知られる。国際的な反イラク感情とイラクへの批判が高まって、無関係に近かったアメリカを中心にイラクへの攻撃支持世論が喚起されることとなる。

これが嘘だと思ったひとは、おそらく皆無だろう

「証言」は裏付けの取れたものと国際的に認識されていたが、クウェート解放以後マスコミが同国内に入り取材が許された結果、虚偽の「証言」であった事が発覚した。また、1992年に「ナイラ」なる女性は苗字がアッ=サバーハであり、当時クウェート駐米大使であったサウード・アン=ナーセル・アッ=サバーハの娘だった事実が明らかになった。その上、証言自体がイラクから攻撃を受けて劣勢だったクウェート政府の意を受けたヒル・アンド・ノウルトンによる自由クウェートのための市民運動(英語版)の反イラク国際世論扇動のために行った広報キャンペーンの一環であったことが判明した。

義憤や涙、つまり感情的に訴えられたニュースというのは大抵が編集されたり、何らかの意図があって流されているものだ。だから僕らは、目に触れるもの全てが編集されたコンテンツ−僕がいま書いているこの記事ですらそうかもしれない−だと思って接しないといけない。世界ではいま、こういう現象が一気に噴出していて、僕らはまるでエンタメのようにそれらを眺めているふしがある。オバマゲート(大統領選でオバマ前大統領がロシア疑惑を捏造したのではないかという事件)、全米での暴動(白人警官によって暴行された黒人男性の死を悼んだ抗議デモに便乗した暴動騒ぎ)、香港問題(香港の独立性に対する世界からの疑義)・・・それぞれのニュースが、いろんな思想的背景をもって語られているのに、僕らは冷静にそれらを比較できていないように思える。

切り取りや嘘、印象操作やメディアアルゴリズムによる認知強化は常態化。これに加えてSNSでは、市民記者と化した一般ユーザーが、我先にとコメント合戦を展開する。そのコメントの何割が真実なんだろう。そうした地獄絵図が、現代の悲しいメディア環境なわけだけど、だからと言ってメディア断食して隠遁生活を送るわけにもいかない。

メディアやコミュニケーションを生業にしている端くれとしては、なんとかならないもんだろうか、とか最近感じていたりもします。

 

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