何事にも“はじまり”はある

生まれ故郷を大集団で出国して、箱を担いで砂漠を40年間放浪しているオッサン。って書くと、かなり危ないカルト宗教のようにも聞こえるわけだけど、なんのことは無い。ユダヤ教でいう出エジプト記の話だ。

契約の箱をワッショイしているモーセ御一行様

砂漠を40年間放浪して、担いだ箱から取り出したおせんべいを食べ続けて旅したという話は、涙なしでは語れない過酷な受難紀行ではあるのだけれども、遠目で見ると山車を担いでワッショイワッショイしている博多祇園山笠のように見えなくも無いわけで、見ようによっては一種のお祭り集団みたいな感じだ。当時のエジプト人や、周囲のひとたちは彼らをどう見ていたんだろうと、ふと思ってみたりもする。

理解できないほど新しい考えをもった集団というのは、時に周囲の人間に対して嫌悪感をもたらすことがある。集団が疎外感を感じれば感じるほど、その結びつきは強くなって信念への熱意は増していくし、それを見た周囲の人間はさらに違和感を強めてしまう。っとまあこんなループは古今東西よくある話。30過ぎて大工から宣教師になったキリストだって迫害されたわけだし、やたら社内の仲が良いベンチャー企業だって、周囲からは宗教っぽいとか言われる。ちなみに、海外では「宗教っぽい」というのは「生産するプロダクトや、プレゼンテーションによって世界観を確立している」という意味の褒め言葉なんだけど。

これは善いひと?宗教的指導者?

「得体の知れない考えを何となく否定したい」というこの不思議な感情は、本当はたぶん誰しもが持っているんだろうけど、それってどこから湧き上がってくるんだろう?恐らくだけど、集団でしか生き延びてこれなかった動物としての本能なんじゃないかなと、僕は思う。

集団には一定の秩序が必要だ。だから集団の進むべき理想像は、虚像であったとしても一律に揃えておく必要がある。「地獄に落ちるから、悪いことはしてはいけない」とか「地道に働くことが自分や親のためになる」とか身近なものもあるし、「住宅ローンを借りて家を購入するのが日本国民の青写真」みたいなものもあるだろう。無数にあるそうした幻想のもとに社会生活というのは成り立っていて、みんなで狩りや稲作をし始めたときから、資本主義が確立した現代まで変わらない。別の考えをもった構成員が集団のなかで増えてしまうと、集団生活を前提にした村や、国家は成り立たなくなる。社会システムの肝はずばり分業なので、稲を刈るひとや、働くひとがいないと経済は回らない。構成員の離脱は経済力の衰退を意味するのだ。だから僕らはほとんど本能的に「新しいひとたち」というのを気味悪がってしまう。

サピエンス全史では、古代メソポタミアから古代中国、ローマ帝国まで体制を維持するのに必要なのは、こうした「想像上の秩序」だったと書かれていて、この指摘は結構鋭い。

「ここが日本である。私は日本人である」という物語は個々人のなかだけでなく、人と人との協力ネットワーク上で機能しているわけで、それぞれの関係性を強固にしていく社会の潤滑油になる。この「想像上の秩序」は時代によって神話や宗教、常識や世間体といった形で表現されるものだ。

オンラインサロンになぜ人は集まるのか?

新しい考えをもつ人たちは、(常識に慣れてしまったひとからすると)ちょっと気味が悪い説。なんでこんなことをグダグダ考えていたかというと、NewsPicksのYouTubeチャンネルで公開されていた議論がとても面白かったからだった。

NewsPicksのYouTubeチャンネルでは「The UPDATE」と題したシリーズ動画が公開されていて、まあまあ面白いんだけど、ざっと見た限り圧倒的にこの回がダントツで良かった。ディスカッションのテーマは「オンラインサロンになぜ人は集まるのか?」である。

オンラインサロンというのは、月額1000円から1万円程度で入れるクローズドなサークル活動のようなもので、著名人や特定のスキルを持ったサロンオーナーがそれぞれ思い思いの活動をサロン内で展開している。

サロン内では、著名人と親密になれるような特別に体験ができるようなものもあれば、「プロジェクト」として世の中に公開される記事や書籍の編集作業を担ったり、はたまたWebサービスを開発してしまうツワモノサロンまであったりして、その内容はサロンオーナーによって全然違う。ただし、1点だけ共通している部分を指摘するなら、「スター→ファン」という、情報が一方通行になっている関係性ではなくって、「参加者⇆サロンオーナー⇆参加者」というような双方向性のあるプロジェクト形式になっているというところ。

参加者はサロンオーナーの発案したプロジェクトに自主的に関わりをもつことができ、コミットメントもある程度は自由な裁量で決められる。サロンが嫌になれば退会してしまえば良い。

キングコングの西野はスタッフを募ってイベントを開催したり、美術館を設立するためのプロジェクトをサロンメンバーと進めているし、幻冬社の編集者である箕輪厚介は動画制作や出版した書籍の販促ツールをサロンメンバーと共同制作する。

ホリエモンの講演会はゲストも超豪華

お金を払って体験を買う、という至極真っ当な仕組みではあるのだけれど、それはキッザニアの比では無く、現実的に価値を持ちうるプロジェクトに参画できる、というのはやっぱり魅力的だ。

ホリエモンの講演に何度でも参加できて、講演自体のスタッフにもなれて・・・というような取り組みだったら、そら価値はあるし、情報感度の高いひとたち同士のつながりもできるだろう。提供されるものよりも、その場所にいること、それ自体を魅力に感じているひとも多いんじゃないかなと思う。

コンテンツとコミュニケーションは融解していく

コンテンツは受動的に楽しむもの。そう信じてテレビドラマやラジオ番組、漫才や雑誌、新聞を消費してきた常識人にとって、この現象はとても気味が悪い。お金を払って、僕らの知らないところで、何かこっそり進めてるなんて。しかもお金を払った人しか楽しめないし、お金を払った挙句に働かされるなんて、と。

実際YouTube動画のライブ配信時のTwitterコメントでは、そうした普通な反応もいくつかはあった。

でもまあ気持ちは分かるよね。こうしたリアクションに対する考察として、いくつかの視点が考えられるかもしれない。

  1. サロンオーナーと参加者間で結ばれる合意に関するもの
  2. コンテンツは受動的に楽しむべきものという誤解

まず第一に、こうしたオンラインサロンへの参加は双方の合意によってちゃんと契約されているものだ。だから気に食わなければ退会すれば良い。好んでプロジェクトへコミットしているひとに対して、サロンとは全く関係ないひとが「それはやりがい搾取では?」というのはちょっと違う。それがやりがい搾取かどうかは当人同士の認識において成立する話であって、外部のひとが発言できる立場にあるのか?というのは微妙な話だ。

オンラインサロンは、参加者が社会的な繋がりを絶ってしまったり、周囲にネズミ講を勧めたりして、僕たちの社会規範を乱したりするものでは無い(当たり前だが)。高額な壺や浄水器を買わされる事もない。そうした自由な取り組みに対して、外側の人間がそれを指摘できる立場にあるかというと、そう考えるのは難しいんじゃなかろうか。Twitterにあるこういう真っ当なフリをしたコメントというのは結構厄介で、心配しているように見えて、実際は論理ではなく本能で否定したいという欲求に駆られた結果出てきているものがほとんどだと僕は正直感じる。こういうやりとりのなかで、論理的に説明をしても納得を引き出すのは難しいだろう。結局このモヤモヤって、それっぽい理由はつけてるわけだけど「純粋な若者をたぶらかして儲けている奴は何だか怪しい」っていうことですよね。

恐らくだけど、「何だかよく分からないから気持ち悪い」と感じるひとの大半は、支払う対価に対して享受するコンテンツやそれを提供するクリエイターの関係性をそもそも誤解しているってところも大きい。これが二つ目の視点だ。

一般に僕らはクリエイターと聞くと、何か完成した作品を提示してくれるものだと暗黙的に期待しているものだ。ミュージシャンであれば楽曲だし、お笑い芸人に対してはコントや漫才を期待する。一方でオンラインサロンのオーナーは、会員限定でコンテンツを公開しているだけじゃない。それらが生まれてくる場所を丸ごと提供している、ある種Facebookのようなプラットフォーマーだと言った方が正確なのだ。参加者が自発的にアクションをとることで、はじめて価値が生まれるような、そんなイメージ。

だから今オンラインサロンに向けて言われている指摘のほとんどは、批判する側とされる側の前提条件がミスマッチしていて、実は議論としては成立していない。

オンラインサロンにとっての“約束の地”は何処

そもそも、知的な会合という意味のサロンは17世紀のヨーロッパが発祥で、当時は貴族の夫人が知識人を招いて開いた社交界が発端だった。お金のやりとりが発生していたわけではないと思うけど、実質的なパトロンはサロンオーナーである貴族だったんだろう。

「ジョフリン夫人のサロン」19世紀初頭のサロンはサロンオーナーがパトロンだった

近世ヨーロッパで流行したサロンの成果物としてディドロの「百科全書」なんかがあったりするし、特に百科全書はフランス革命の推進派によく売れ、世の中を動かす原動力になったことは間違いないだろう。

百科全書』は、フランス啓蒙思想ディドロダランベールら「百科全書派」が中心となって編集し、1751年から1772年まで20年以上かけて完成した大規模な百科事典

ダランベールが執筆した『序論』によれば、これは、「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、そしてただ自分自身のためにのみ自学する人々を啓蒙すると同時に他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つような」事典であった。当時の技術的・科学的な知識の最先端を集めたこの書物は、古い世界観をうち破り、合理的で自由な考え方を人々にもたらすのに大きく貢献した。しかし企画段階から体制側との緊張関係の中で刊行された『百科全書』は、そこに記された思想によって意味を持つだけでなく、その刊行自体が一つの政治的な意味を持っており、18世紀のフランス啓蒙思想が成し遂げた成果といえる。

百科全書(Wikipeda)

キングコング西野のオンラインサロンでは、絵本で描いた世界観を現実世界で再現する美術館を建築するためにオンラインサロンを動かしているんだそうだ。それが、彼の考えるディズニーに勝つ道に繋がっているのだと。

考えてみればディズニーって、ウォルト・ディズニーだけが働いて完成したものでは無いんですよね。ビジョンとして提示したのはウォルト・ディズニーかもしれないけど、そこには数多くのアニメーターや建設業者や、法律顧問たちがいたわけで、全部分業になっている。

Appleもそうで、皆んなiPhoneやiMacをスティーブ・ジョブズがつくったと思ってるひと多いですけど、デザインしたのはジョナサン・アイブだし、Appleが自社チップと謳っているその設計図作ってんのはそもそも外部のARM。でも提供すべき体験価値を定義して、ビジョンを編み出したのはスティーブ・ジョブズであることに間違いは無い。

いまのオンラインサロンは、(そのメンバーがそうして欲しいと思っているかは別として)理解されるまでの過渡期にある。主体であるコンテンツメーカーは1人であるべき、という誤解。メンバー同士のコミュニケーション自体がコンテンツなんだ、というプラットフォームとしての理解不足。サロンという設定自体が内向きの志向性を持ちがちなので、情報発信が内向きにならざるを得ない事情もそうさせているのかもしれない。

でも新しいもの好きとしては、そういった筍のように伸びてきたいろんなサロンから、新しい価値観を世に問うたり、社会に素晴らしい変革を生み出すきっかけになるような取り組みが生まれてくることも期待しています。それぞれの目的地が自由であること、それこそがオンラインサロンの魅力ではあるんだろうけどね。

仕方のない話だけど「○○はこうあるべき」という常識に凝り固まっているひとって結構多い。本なんか、一人で書き上げることに価値を感じている消費者って結構多い気はします。インタビューを録音したものをライターが書き起こしたりしているものより、本人がひとりで原稿用紙やパソコンと向き合って書き上げたもののほうが熱意が詰まっているはずだ!みたいな。

 

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