CYOA-Bookというのは「Choose Your Own Adventure」、つまり「自分の冒険を自分で選べ」という意味で、かつて日本では「アドベンチャーゲームブック」という呼び名でゲーム通に人気があった本の部類。読者は本を目の前にして常に選択を迫られていて、「YESか、NOか」「右に曲がるか、左に曲がるか」「この怪物を信じるか、殺すべきか」とかまあそんな感じで、ページを行ったり来たりしながら物語を読み進めていく本だ。
なぜこんな話を書いているかというと、主人公がアドベンチャーブックをゲーム化するというテーマの映画「ブラックミラー: バンダースナッチ」を観たからだった。
※この記事は若干のネタバレを含みます
目次
Black Mirror: Bandersnatch
ブラックミラーはNetflixのSFシリーズで、毎回1話ものの物語を配信し続けていて、既にシーズン5の制作も決定した人気シリーズ。バンダースナッチは2択式のインタラクティブ映画として公開された。これは映画館ではできない画期的な試みだ。
母親を失った内気な主人公ステファンはゲーム開発会社に内定を得るために、テスト版を持参して面接に向かう朝から物語が始まる。
そこからトントン拍子に人生上手くいって・・・なんてことは無いから映画のモチーフになるわけだけど、追い詰められ、錯乱しながら、ゲームのモチーフである「選択しながら進む」というアイデアと、「自身の行動を選択していく」ということの境界が崩壊していく・・・という話。
シリーズとしてのブラックミラーは少々ブラックユーモア色が強いから、テイストとして陰惨なトーンに傾いていくというのは正直悪くない。安易な明るいSF作品ではなく、(シリーズにはコメディタッチのものもあるんだけれども)むしろ本来のテイストを保ったまま、インタラクティブ映像作品というもう一歩踏み込んだ作品に仕上がったことを僕は評価したいなあといったところ。
選択肢を提示し続ける映像作品の意味
この映画の一つのコアアイデアともいうべき「インタラクティブ」な部分なんだけど、実はこういうアイデアは新しいもんじゃ無い。TV番組でも古くは(タモリが司会だったと思うけど)「if…もしも」といった番組があったし、選択によって異なる人生を歩む主人公というコンセプト自体はあった。
このバンダースナッチでも主人公は、視聴者の回答した選択肢に沿って映画内の世界を歩んでいくことになるわけなんだけど、Netflixは従来あったような2つ映像を順番に見せるという手法を廃して、映画を完全なシナリオゲームとして再構築してみせたこと、それをNetflixというプラットフォームで配信したことに素晴らしさがある。
Netflixらしいやや暗めのシネマティックなカラーグレーディングを施された映像と、時折表示される選択肢を目の前にすると、なんだか超高画質なノベルゲームをやっているような、不思議な感覚に陥ってしまう。
ただ、この作品の本当に面白いところは実は「選択肢が選べる」ということにとどまらない。ユーザーが視聴者として選択肢を選ぶことで、主人公の行動は変わっていくわけなんだけれども、その自由意志自体をテーマに据えながらメタフィクションに仕上げることで、観ている人間にボディーブローをかましてくる作品として完成度が高いのではないか。そう思う。
僕らは完全に箱庭を観ているような感覚。つまり普段と何も変わらない、安心した状態で映画を観ていて、この映画ではその物語を操作する側に立っている。主人公のステファンはその状況に「自由意志は果たしてあるのか」という異議申し立てをしながら錯乱していく。とても悲しい話だ。しかし悲しいだけじゃ済まされない。そもそも僕らはこのバンダースナッチという作品を主体的に観ているような気分になっているわけだけど、実は用意された選択肢自体は制作者の作為的なものなはずだ。
ここで僕らは主体-客体という関係性が脆く崩れかけていることに気がつくはずだ。静観者として映像を観ている側から、(一度は)主体的に操作する側になったと思わせておいて、実は全て制作者の意図通りに「選択肢を選ばざるをえない状況」に追い詰められていることに気づく。僕は誰かに操作されている!と錯乱していく主人公は、もしかしたら(ディスプレイの前で安心しているというだけで)あなたとはそんなに違いは無いのかもしれない。
ゲーム開発の現場ではよく、イースターエッグをゲーム内に忍ばせる。イースターエッグというのは開発者の込めたちょっとしたいたずらメッセージや、メタファのこと。この作品のなかには、ブラックミラー シリーズからの大量の引用が仕込まれている。初見で分かるレベルで簡単なものだ。ただし、それを探そうとしてしまうことそれ自体が、トラップというか、主導権を握っているのは向こう側だと言わんばかりだ。
主人公の描き方が浅い??そう、だって本当の主人公は僕らなのだから。演出としてそうすべきなのだ。
インタラクティブ映像作品によって、クリエイティブの意味は融解していく
かつてYouTubeの動画内リンクという手法が始まって間もない頃、いろんな会社が選択肢を選んで動画を次々と閲覧させるシナリオムービーを制作した。あれから数年経った今、Netflixは動画再生回数以上のメタデータをこの作品によって得ることができるようになるだろう。
今後こうした映像作品は、特にホラーなんかではどんどん出てくるだろうなあとは思うし、自分の好みの結末にたどり着くことが、NetflixやAmazonにとって重要なデータになることは確実だ。既に集まっているデータを使えば、売れるライトノベルや、話題になるシナリオ展開、鉄板なメディアミックスプロモーションなんてのも、おそらく簡単にプランニングできる。作品自体を人間が執筆する必要すら無いかもしれない。
実際、ライトノベルで売れるのは「なろう系(小説家になろうというサイト発という意味)ジャンル」が最も鉄板で、それはテンプレ化されてる。主人公は突然異世界に飛ばされて、ジョブチェンジし、大抵周囲の取り巻きになるのは少女や美女であり、主人公の能力値はチートレベルに高い。こういう売れ筋パターンをつくるのが、人間の勘からAIに移行していくというだけの話なのかもしれないけれど。
というわけで、僕の評価は★★★★★ですね。テクノロジーの恩恵を授かっていたつもりが、いつの日か何か重要なものを欠落してしまう日も近いのかな、なんて思うたび、目頭が熱くなります。
最後に、偶然目にしたツイートを貼って終わりにします。
いまから20年前の1999年、ボウイはBBCのニュース番組「Newsnights」司会者ジェレミー・パクスマンの取材に答えています。16分間の問答全部がBBCによって公式に公開されていますが、インターネットに関するボウイの先見性を示すものとしてとても有名なインタビューです。https://t.co/6i81T7xKgR
— Tats (@Buzz_The_Fuzz) 2019年1月14日
で、その主要部分を字幕付きで。「後だし」ナシで正直に振り返れば、99年当時のインターネットに関する常識は、このBBCの司会者のものが至極真っ当でした。つまり、ボウイのような意見こそ、馬鹿にされる類いのものだったのです。以来、20年が経ちました。 pic.twitter.com/I17YcGf1ti
— Tats (@Buzz_The_Fuzz) 2019年1月14日
ただ単に趣味嗜好に合わせるだけでない、もっと根本的に違う映画というものの可能性と、いま観ている映画というものの意味をぐらつかせる、とても良い経験でしたわ。