クラブ?ディスコ?両者を線引きするのはとても難しいし、その歴史について詳細に語ることも難しい。ディスコは「ディスコティーク形式のナイトクラブ」という意味だし、そこで当初流れていた音楽はディスコミュージックと呼ばれる、限られたジャンル志向の音楽だった。

 

 

最後の夜、最後のパーティー

1987年9月26日の土曜。金曜の夜から踊り明かした人たちは、まだ帰るまいとNYはキングストリートの一角にあるダンスフロアで踊り続けていた。

最後にスピーカーから流されたのは、黒人ソウルグループTRAMMPSの「Where Do We Go From Here ?(僕らはここからどこへ行けばいいの?)」。そのとき、フロアにいたひとにはどんな風に聴こえていたんだろうか。その晩のパーティーを知らせるフライヤーには、こう書かれていた。

人生には時に素晴らしい事も終わりを迎える瞬間がある。
別れは悲しいけれど、心の中に記憶という灯をともし続けよう・・・
後悔することは何もない。

その場にいた全員が「今晩この伝説のクラブは閉店する」と知っていたのだった。

その伝説のクラブはニューヨークはマンハッタン、ハドソン・スクエア地区のキングストリートに位置し、「Paradise Garage」と呼ばれていた。

正式には1978年にオープン(前年から小規模なパーティー会場としてオープン)。1987年まで営業を続けたPradise Garageは、クラブカルチャーのひとつの完成形をつくったといっても過言ではない。そんな伝説のクラブとなった「Paradise Garage」のレジデントDJがLarry Levanだ。

現代のクラブカルチャーの発端となったクラブ。それが「Paradise Garage」だ。この記事では、モダンクラブを確立させたParadise Garageまでに至るディスコミュージック、ダンスミュージックの歴史についてまとめてみたい。

 

Francis GrassoとDJミックスの誕生

始まりの話はParadise Garageから遡ること10年ほど。1969年のニューヨークでストーンウォールの反乱が起こっていたその頃、同じニューヨークで革命的なパフォーマンスを発明したDJが現れた。それが、Francis Grassoだ。グラッソはもともと「Salvation II」というクラブ(以降ディスコという意味も含めて“クラブ”と記載)でDJをやっていて、その店が閉店したことを機に新しく「Sanctuary」というクラブのDJに就任する。

サンクチュアリーはもともとパブティストの教会を改修したクラブで、「Church」と名乗っていた。チャーチは「教会」というにはほど遠いほど悪魔的な場所で、祭壇の反対側には恐ろしい悪魔がプロジェクターで映し出されておて、その周囲を天使が飛んでいた。あらゆる種類のセックス描写がなされたその様子は、それはもう卑猥だったらしく、ローマ・カトリック教会から圧力がかかっていた。カトリック教徒はこの堕天使の巣窟に猛烈に抗議した。妥協案としてクラブの名前は「Sanctuary」に、堕天使はプラスチックの花やぶどうに変わったのだった。

怪しかったのは店内の雰囲気だけではない。グラッソが就任してすぐ、サンクチュアリーのスタッフは大金を持ち逃げして消えてしまい、たちまち運営は危機的状況を迎える。その危機を救ったのが、ドラァグクイーンのシェリーだった。シェリーはクラブをゲイに開放することで、サンクチュアリーはアメリカで初のゲイクラブになった。そんな奇跡のような場所で、グラッソはレコードとレコードをストップさせずに延々とかけ続け、踊り続ける魔法を編み出した。

まだモニターヘッドフォンも無かった時代、グラッソはレコードと回転台の間にフェルトを挟み、ピッチを調整して2枚のレコードをミックスすることに成功した。そして特筆すべきは、彼のかけるレコードにジャンルという垣根が無かったという点だ。これは後のLarry Levanにも引き継がれるほど大きな意味をもっていた。音楽的な壁がなくなることで、その後のサウンドクリエイターたちが様々な音楽や、環境音を含む音楽的断片から、楽曲を構成するレールを敷いたと言っても過言ではないだろう。

 

Daivid Mancuso “The LOFT”

Francis Grassoは一晩のDJミックスを一つの大きな物語だと捉えていた。ミックスの終わりにはドアーズの「The End」が流れ、完璧にコントロールされた物語を、一晩を通したミックスでつくりあげていた。グラッソがサンクチュアリーにDJとして就任した翌年、彼とは違ったアプローチで、「ミックスという物語」をつくろうとした男がパーティーを始めた。それが、David Mancusoだ。

1970年、同じくニューヨークのチェルシー、ブロードウェイとブリーカーストリートの角にあるロフトタイプのアパートメントに住んでいたマンキューソは「The LOFT」というパーティーを始めた。もともとは家賃を払うための内輪のパーティーが発端だった。

「The LOFT」はプライベートなパーティーで、200名程度のメンバーズカードを持った会員しか入れない特別なパーティーだ。ゲイであるという共通点で結ばれた、様々な人種がパーティーに集まった。警察の踏み込みを避けるためアルコールは販売しなかったが(アルコールを販売すると営業していると見なされ、営業時間が制限された)、その埋め合わせはクロークで販売されるアシッドやラッシュが補った。他のディスコが店を閉めたアフターアワーズと言われる時間、ロフトは賑わった。なるべく遅れて登場することが、カッコいいとされたのは今とあんまり変わらないかもしれない。

マンキューソは曲と曲をつなぐミックススタイルではなかったが、グラッソと同じく、DJのつくりあげる時間をひとつの物語だという理念でその時間を演出した。「ロフトで踊ることはあたかも音楽の波に乗るようだった」とヴィレッジボイス誌のヴィンス・アレッティに言わしめたそのパーティーでは、ビルボード誌には決して掲載されなかった音楽たちも積極的にプレイされた。フランシス・グラッソのように、どんなジャンルでもプレイした。これは後にクラブをオープンさせるNicky Sianoや、Larry Levanにも受け継がれていく。

低音がクリアに強調されたそのサウンドは、マンキューソがサウンドエンジニアであるAlex Rosnerへ依頼した特製のサウンドシステムだ。ロズナーは当時放送用にBozak社から販売されていたミキサーを、創業者のLouis Bozakの許可を得てカスタムした。そしてそれは世界初のステレオミキサーとなり、後にUrei 1620という伝説のミキサーへ結実することにもなる。

 

Nicky Siano“The Gallery”

マンキューソの「The LOFT」は熱狂的なロフト・ベイビーズと呼ばれるファンを生み出した。そのなかの一人に、Nicky Sianoがいる。

シアーノは14歳でクラブデビュー、16歳でロフトのメンバーズカードを手にいれた飛び級DJだ。彼は1971年、ロフトの夏季休業を機会に自身のクラブ「The Gallery」を開いた。彼の成功は瞬く間に広まり、Grace JonesやLoleatta Hollowayの最初のショウをオーガナイズしたのもシアーノだ。ギャラリーでは、後に「Paradise Garage」のレジデントとなるLarry Levanと、ハウスミュージックをシカゴでつくることになるFrankie Knucklesが二人で働いていた。まだ若かった二人は、ドリンクにひたすらドラッグを入れるアルバイトをしていた。

シアーノの功績はDJをアンダーグラウンドなBGM屋から、楽曲をヒットさせるプロモーターへと格上げさせたことだ。シアーノが好んでかけていたLove Unlimitedの「Love’s Theme」という17分もある大作は、1973年当時廃盤寸前だったが、シアーノが何度もかけるのでラジオでヘビープレイされるようになり、翌年1974年にはビルボードの全米チャート入りを果たした。シアーノは自身のプレイが曲の売り上げにつながることを直感的に知っていた。

シアーノはクラブでレコードをプレイすることが、曲を人気にさせる要因であることを理解していた。だから無料でレコードを提供するよう、レコード会社に掛け合った。DJとレコード会社の関係は、その後マンキューソとディアキャストを中心として「レコードプール」というシステムへ繋がり、DJがレコード会社から提供される「DJプロモ・オンリー版」となる。ちなみに、デジタル全盛の現代ではそれは「デジタル・プール」と呼ばれる。

シアーノがギャラリーをオープンさせた1971年、フィラデルフィアでKenneth GambleとLeon A.HuffがPhiladelphia International Records(PIR)を設立したのも大事な出来事だ。豪華なストリングスを携えたバックバンドを基調にしたこのディスコサウンドは、「フィリーソウル」とも呼ばれる。フィリーソウルに関しては、以前の記事をご参照くださいませ。

 

Extended Mix ! リミックスの始まり

Paradise Garageの話をする前に「リミックス」という音楽的作業を生み出した重要な人物について紹介しておきたい。

クラブミュージックと切っても切れない関係にあるのがリミックスという手法だ。リミックスというと、今では原曲を改変して違うバージョンをつくることを意味するのだけれども、もともとは「曲の時間を引き延ばす」ことを主な目的としてものだった。それは今でもExtended Mixと呼ばれるものだ。

リミックスの歴史を語るうえで外せない3人が、Walter Gibbons、Mel Cheren、Tom Moultonという男たちだ。そのうちの一人、Mel Cherenは後にオープンする「Paradise Garage」に出資した重要人物だ。シャーリンはもともとScepter RecordsのA&R(音楽レーベルでアーティストの発掘や育成、リリースまで担う担当者)で、その後1976年にWest End Recordsを設立する。セプターでは、1973年当時Ultra High Frequencyの「We Are On the Right Track」をリリースしようとしていた。セプターに勤務していたシャーリンは、レコードのB面をインストゥルメンタルverにすることを会社に提案した。

その頃になると、多くのディスコDJが同じレコードを2枚かけることでロングミックスのパフォーマンスを行なっていた。ただし、そこにボーカル(歌)が入るとロングミックスを行うのは難しく、多くのDJたちはボーカル無しの楽曲を求めた。シャーリンはダンスフロア向けのレコードとして売り出すには、ボーカル無しのインストゥルメンタルが必要であることを知っていた。

シャーリンのおかげで大ヒットした「We Are On the Right Track」に目をつけたのがTom Moulton。

モウルトンはブラックミュージックの百科事典とも呼ばれた白人DJで、ビルボード誌のディスコ記事を連載することにもなる生き字引だ。また、ファイヤー・アイランド(NYロングアイランド南の小さな島、裕福な白人ゲイコミュニティの発展場だった)にあったクラブ「サンドパイパー」のDJをやっていた。モウルトンは他のDJと違い、DJブースでミックスをしないDJだった。モウルトンは当時最先端の機材を自宅に揃えたホームスタジオでミックスをつくり、テープに録音して持ち込むという今でいうところの「一本wav DJ」みたいなことをやっていた。その理由は「ダンサーに魅入られてしまって、その場でミックスができなかったんだ」というものだったのだから笑える。

最初のリミックスワークはセプターレコードから依頼されたDon Downingの「Dream World」。モウルトンはシャーリンから入手したマスターテープをもとに8分に引き延ばし、リズムブレイクなどを加えた「Tom Moulton Mix」を制作。リミックスverはラジオで流されなかったにも関わらず、ダンスフロアから熱狂的に歓迎され大ヒットとなる。

モウルトンは音楽業界初のリミキサーとなり、1973年から74年にかけて様々なリミックスワークを手がけることになる。最も有名なのはGloria Gaynorのレビューアルバムでの仕事で、3曲分のリミックスを頼まれたモウルトンは3曲を丸ごとつないでしまうという伝説的なリミックスだ。ただ音楽業界は、作曲や演奏すらできなかったDJに対して肯定的な態度をとるひとは少なかった。Gloria Gaynorはモウルトンへ「もう一切自分の曲をミックスしてくれるな」と電話したそうだし、モウルトンの名前はレコードのクレジットには載ることは無かった。モウルトンは初めて12インチのレコードカットを行なう(7インチ盤を切らしていたという偶然の産物だが)など、今では画期的な偉業を成し遂げたDJだが、DJはミュージシャンでは無いという風潮は今にも通じるものがあるかもしれない。

ところで、12インチのリミックスレコードを世界で最初にリリースしたのは、Salsoul Recordsというインディペンデントのレーベルだった。リミックスを手がけたのはモウルトンの友人でありGalaxy 21のレジデントDJを務めていた、Walter Gibbons。ギボンズは1976年にリリースされたサルソウルからリリースされたDouble Exposureの「Ten Percent」を3分から約10分まで引き延ばし、リズムやドラムを大胆に差し替え、ダンスフロアを圧倒的に盛り上げるのに貢献した。

 

Paradise Garage前史

話をLarry Levanに戻そう。

シアーノのクラブ「ギャラリー」で働いていたLarry LevanとFrankie Knucklesは、幼馴染だった。二人はギャラリーで仕事をした次に、「Continental Baths」と呼ばれる場所で照明係をすることになった。1968年にオープンした「Continental Baths」はその名の通り公衆浴場(ジムやレストラン、性病専門のクリニックもあったそうだ)であり、当時はゲイの発展場として人気があり、ディスコを流すフロアもあった。1973年にLarry LevanはレジデントDJとなったが、翌年にはサウンドエンジニアのRichard Longから誘いを受けてSOHO CLUBへとDJの場所を移してしまう。そして、そのレジデントDJは、Frankie Knucklesが務めることになった。

SOHO CLUBでのDJプレイを目にし、SOHO CLUBが閉店してから「うちのクラブでDJをしてくれないか?」と誘ったのが、後にParadise Garageを創設することになるMichael Brodyだ。Michael BrodyはもともとMel Cherenの恋人だった。19歳の頃、Mel Cherenと同棲していたMichael Brodyは、間にマッチョが入ってきたせいで三角関係になってしまい、ブロディはシャーリンの元を去り、自らのクラブをつくることを決意した。

若いブロディに多額の資金は無く、最初につくったのが「Read Street」という小さなクラブだった。これからスターになるDJをまず見つけなくてはと考えたブロディは、SOHO CLUBでDJをしていたLarry Levanに声をかけ、「Read Street」でDJをさせた。そして「Read Street」とその次につくった「Tribeca」が閉店し、次の壮大なクラブ「Paradise Garage」の創設計画に着手すると、ブロディはラリーに「他のクラブで一切DJをしないでほしい」とすら頼み込んだ。

Paradise Garageの時代

1976年、Michael Brodyはついに夢のクラブに最も理想的な場所をグリニッジ・ヴィレッジのキングストリートで見つけた。それは車庫(Garage)であり、リードストリートよりも遥かに広く、クラウドたちにリラックスするスペースを提供することもできる広さで、より音楽的な体験を深く・長時間提供したいブロディにとっては理想的なスペースだった。1階だけでも3000人は収容できるキャパシティがあった。

しかし広ければ広いほど多額の開設資金が必要となった。結局、West End RecordsのMel Cheren(元カレ)に出資協力してもらうことになるが、1977年より工事中の予定地で「Construction Parties(工事中のパーティ)」というシリーズのパーティを始め、資金を貯めながら、1978年2月にParadise Garageは正式にオープンする。

サウンド・エンジニアリング

Paradise Garageのエントランスを入り、緩やかな登り坂になった長い通路を上がっていくと、地響きのようなサウンドが漏れ聞こえ、扉を開けると別世界が広がっている。

空中から吊るされたサウンドシステム、通称レヴァンシステムと名付けられたそれは、かつてLarry LevanをSOHO CLUBへ誘ったエンジニアのRichard Long(加えてGary Stewart、彼らはRichard Long Associatesと呼ばれる)による設計で、壁はファイバーグラスで無駄な反響をしないように設計されていた。内臓に直撃する重低音と、(まるでクリスタルのような、とも言われる)クリアな高音は、後にBillboardからベストクラブ、ベストサウンドシステムという賞も受賞する(1980年、1981年)。2000から3000人は押しかけたそのクラブにはエアコンは無く、フロアで踊る人々の熱気でアンプから出る音をパーティー前、パーティ中、明け方といったふうに何度も調整しなければならなかったそうだ。

レコードをかけるターンテーブルは「(MCカートリッジの)Thorens 125」ミキサーはDavid Mancuso御用達だったBozak社製のものをカスタムし(後にUREIになったそうだ)、UREIのEQ(イコイライザー)を経由して、改造されたRLA X2000から爆音が生まれていた。ミキサーのループにはDBX 503(3bxのラックマウント版)とQ5000。X 2000のループはDELTA LABのDELAYにつながっていて、それぞれのチャンネルやマスターアウトへもDeleyエフェクトを変更することができた。

その、用意周到かつ大胆な設計思想は、現在DJ機材の世界的なトップメーカーであるPioneer DJのサウンドシステムにも受け継がれている(GONNO x YUJI MURAI Special Interview – HigherFrequency)。

ガラージで過ごすには

Paradise Garageには2つのダンスフロアのほかに、いくつもの部屋があった。例えば Buddha Roomではフロアのビートから離れてリラックスすることができたし、小さなレストランや映画館すらあった。そして何より、Larry LevanはParadise Garageに住んでいた。DJブースの後ろの右側に彼のベッドもあって、文字どおりレジデント(住人)となっていたのだ。

翌日の明け方、パーティーが終わってからは皆近所のカーマインストリートに走って、レコードショップにかけつけ店長を質問攻めにする時間だ。VINYL MANIAというそのショップは、開店当初ビートルズとストーンズの貴重盤だけを扱うレコードショップだった。Paradise Garageがオープンしてからは客層がガラっとかわり、皆同じ質問を店長に繰り返した「ラリーのレコードはある?」

なんのことか分からなかった店長は、Paradise Garageに通う、ジョディ・ラッセルとマニー・レーマンを雇い入れ、店内でレコードをかけることにした。そうして白人しかいない地域で育った店長は、初めて黒人やゲイの文化を知ることになった。VINYL MANIAは開店すると同時に、マニーがレコードをかけ、曲を紹介していくことで、地元で最も繁盛するレコードショップになる。Larry Levanが心臓の鼓動と一緒にミックスしたTaana Gardnerの「Heartbeat」は、VINYL MANIAだけで5000枚を売ったそうだ。

 

Garageという音楽ジャンル

ある日ミラーボールが汚れていたのを見つけたLarry Levanは、DJ中にブースから出てきて、脚立を出してきて掃除し始めた。流れていたレコードが終わると、音は止まり彼は掃除を続け、終わるとまたDJブースに戻っていった。そして何事もなかったようにDJは再開され、フロアはまた踊り始めた。Larry LevanにとってParadise Garageは、それ自体がパフォーマンスであり、創作物だったのだ。

Michael BrodyとLarry Levan、そしてMel Cherenが作り上げたかったのは、音楽を愛する者にとっての楽園だった。Studio 54のようにVIP連中だけを優遇するのではなく、音楽を愛する全ての人間が歓迎される場所だった(会員証となるカードをもった者しか入れなかったが)。熱狂しながらダンスフロアで踊り狂うその様を見たひとは「まるで宗教的な儀式のようだった」と書き残している。2014年には当時を振り返ったイベントも開催されている。

82年には伝説的なライブも行われた。回転するレコードを止め、マイクを握ったLarry Levanは、ダンスの興奮も冷めやらないクラウドたちに「これが彼女の初ライブだ!月曜になったらWBLS(ラジオ局の名称)で流れるはずだぜ!」と伝えた。登場したのはマドンナだった。

Paradise Garageにはライブ以外にも有名人は来ていた。サブウェイ・ドローイングで有名になるKeith Haringや、後のテクノを生み出す第一世代のKevin Saundersonもその場にきていた。

Larry Levanのプレイでは、Francis GrassoやDavid Mancusoのようにどんな音楽も流れていた。SALSOULやWest End、Preludeといったディスコ系のインディペンデントレーベルはもちろんかけていたし、ソウルクラシック、ジャマイカンダブ、有名なのはThe Clash「The Magnificent Seven」のインストをかけていた。そのほかにもTalking Headsの「Once In A Lifetime」、ナイジェリアのFelaKuti、そして現代音楽までかけていた。

そうして今では、当時プレイされた音楽のことを僕らは「Garage」と呼ぶ。

 

Frankie Nucklesとハウス・ミュージック

Paradise Garaageでの活動を通じて伝説的なDJとなったLarry Levan。その幼馴染だったFrankie Knucklesも、ダンスミュージックの歴史に名を残すことになる、あるジャンルの創始者となる。それがハウスミュージックだ。

レヴァンがParadise Garageで活躍していたその頃、Frankie KnucklesはシカゴのオーガナイザーからレジデントDJの誘いをもらう。シカゴでオープンしたクラブの名前は「The Warehouse」。「ハウス」というジャンルの由来は「The Warehouseでナックルズがプレイしている音楽」という意味だった。ただし、その話はテクノと一緒に、また次の機会にすることにしよう。

 

DJ関連記事の連載一覧 シリーズ

「What to Play」のDJ論

PCDJ入門シリーズ 目次

DJやPCDJを始めたい!という方はこちらのシリーズをどうぞ。

DJ用語集 目次

分からない用語はこちらでチェックしてみてください。