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音楽をジャンルで区切るということを明確に表明したのは、Billbord誌が1949年に「“Race Music”を“Rhythm & Blues”へ」「“Hillbilly”を“Country Music”へ」変更したのがおそらく最初で、そういう枠組みをつくるのは商業的に売り込みやすいからであることが多い。

でも、音楽のジャンルなんて、本来はいたってあやふやなもので、歴史や定義の話をすればするほど、ほとんど嘘になってしまうような気もする。ハウス音楽の話ともなると、特にそうだ。

というわけで今回は、そんなハウスミュージックの歴史について、解説してみます。

ハウスにまつわるエピソード

いたって緩い黎明期のハウス界隈

20世紀後半から現在にかけて、大衆音楽に絶大な影響力をもっているハウスミュージックは、熱狂的なジャンル原理主義者や、歴史主義に立脚しているDJたちのおかげで、今や確固たる地位を音楽業界に築いてはいるけれど、本当はそんなに厳格なものじゃなく、あやふやで、でたたらめな感じのムーブメントと言ってもいいんじゃないだろうかと僕は思っている。DJたちがクラブで音楽をかけるレコード盤には、真っ白なラベルしか貼られていなくって、要は劣化盤の違法コピーレコードなんてものが出回るのも日常茶飯事だった。

例えばこんなエピソードがある。ハウスクラシックの一つとして知られている、「No Way Back(1988年)」。これを作曲したのはAdonisというひとだけど、彼がレコードをプレスしようと工場に持ち込んだところ、プレス工場のLarry Sherman(レコード会社の親玉)が目をつけ、自分のレコード会社TRAX名義で勝手に売り出してしまった。

https://www.youtube.com/watch?v=Mghi9zkOxvY

TRAXはハウスクラシックを量産したことで有名なレーベルではあるけど、この社長Larry Shermanはとても悪どい商売をしていたことも同時に有名。同じくハウスクラシックの「Your Love(1986年)」なんて、有名DJの名前を勝手につけてリリースしていたぐらいだ(本当の作曲はJamie Principle)。

ちなみに、その有名DJというのは、今回紹介するハウスミュージックの発端となった最重要人物“Frankie Knuckles”。

「Your Love」を聴いてみると、いま現在一般的に思われている「ハウス」とちょっと趣が違うのも面白い。でもこの名曲は揺るぎなくハウスと断言できる。その理由はハウスという言葉の由来に秘密がある。

“HOUSE MUSIC”の“HOUSE”とは?

ハウスという音楽は、シカゴで生まれ発展した音楽で、その由来には有名なエピソードがある。

ある日シカゴのクラブでレギュラーDJをやっていたFrankie Knucklesが、ふとレコードショップの軒先に「HOUSE MUSIC」という言葉を見つけた。彼は一緒にいた女性に尋ねた。「あれは、どんな感じの音楽なんだい?」すると女性は答えた。「あら知らないの?あなたがいつも“The Warehouse”でかけているダンスミュージックっていう意味よ」このエピソードには多少の脚色があって、Frankie Knucklesは、実際にはその言葉が書かれていたレコード屋「Importes Etc.」で前々からレコードを買っていたから、「ハウス」という名称をオーナーが勝手につけ始めたという話もある。

“HOUSE”とは“The Warehouse”。つまりクラブの名前から来ていて、「Frankie Knucklesがウェアハウスでプレイしている音楽」という意味だ。ハウスでは踊れることが最も重要なテーマであり、逆に言ってしまえば踊れればどんな音楽だって構わない。こうして考えるとハウスというのは音楽のジャンルというよりも、一種のムーブメントに近くて、何らかの音楽的様式のことを指すわけじゃなかった。

“ハウス”命名の由来は、上の説明が概ね真実とされているけど、実はもう一つ意味がある。「Your Love」しかり当時シカゴで流れていた音楽は、安いサンプラーやRolandのTR-909のような中古屋で叩き売られていた機材をつかって簡単に作曲することができた。スタジオに入らなくてもいくつかの機材があれば、誰でも簡単につくれたことから「家でも作れる(In the house)」というチープな意味を込めてHOUSE MUSICと呼ばれた。

初期のハウスミュージックは、それこそ本当に“In The HOUSE”でチープなもので、ドラムマシンとシンセサイザー、あとは4チャンネルか8チャンネルのマルチトラックレコーダー(MTR)があれば、あとは大抵ディスコ音楽からフレーズをパクって仕上げることができた。大抵は皆同じような機材を使っていて、ROLANDのTR-707、TR-808、TR-909からはじまり、キーボードはJX8P、YAMAHAのJUNO106、KORGのEX8000シンセサイザー。まあみんなだいたいそんな感じだから、あまり興味のないひとにはほとんど一緒に聞こえる楽曲もけっこうあるだろう。Rolandの機材に関する話は、過去の記事をどうぞ(Roland発DJコントローラー DJ-808/DJ-505/DJ-202 に注目する理由)。

 

ニューヨークからシカゴへ

from N.Y. to Chicago

ディスコというかダンスミュージックの中心地はニューヨークだったのに、何故ハウスミュージックがシカゴで生まれたのか?その経緯は結構面白い。

1977年の3月、Michael Brodyがニューヨークの一角で画期的なクラブ「Paradise Garage」のオープンに向けて奮闘していたその頃、時を同じくしてハウスミュージックの由来ともなるクラブ「The Warehouse」のオープニングパーティーがシカゴで開かれていた。そのDJブースに立ったのは、Frankie Knuckles。Paradise GarageのレジデントDJとなることが決定していたLarry Levanに代わって、かねてからの友人だったFrankie Knucklesは、ニューヨークのクラブ「Continental Baths」のレジデントDJとなっていたところを抜擢されたのだった(ラリーは実際、ニューヨークを離れたくないという理由で誘いを断った)。The Warehouseだった場所は、今でもGoogleMpaのストリートビューで確認できる。

ニューヨーク仕込みのFrankie Knucklesのプレイは、すぐに評判になった・・・とはいかない。ちなみにこの頃からハウスミュージックという単語自体は存在していたのだけれども、地元の音楽好きが使う用語ぐらいの程度で、実際にクラブでプレイされていた音楽はフィラデルフィア産のソウル(いわゆるフィリーソウル)やSALSOUL、WEST ENDのようなダンスミュージックレーベルの音楽が中心だった。これは、Frankie KnucklesがLarry Levanや当時のニューヨーク界隈からの影響を強く受けていたことによるものだ。

本格的に人気になるのは、シカゴに移り込み、いつかのパーティーを経て、ミックスにニューウェーブ系のレコードを織り交ぜるようになってからのことで、そうして1970年代の終わり頃から、1980年 にかけてハウスミュージックの音楽的な土壌が整い始めた。

Robert WilliamsとThe Warehouse

ところで。Frankie KnucklesをThe Warehouseへ招聘した先見の明あるオーナーが、Robert Williamsだ。彼はコロンビア大学生の頃、ニューヨークのハーレム地区に住んでいて、70年代の終わりには黎明期のクラブ(「DJ時代の幕開けから、PARADISE GARAGEまで」に記載)であるThe Sanctuary、Better Days、The Gallery、Manhattanといった伝説のクラブで夜を過ごすようになっていた。David Mancusoのプライベートパーティ「The LOFT」にも通っていて、当時はまだ若かったLarry LevanやFrankie Knucklesとも知り合いだった。

その後シカゴに移り住んだRobert Williamsが「The LOFT」のようなアフターパーティーの開催を思い立って友人と立ち上げたのが「US Studio」。そこではジュースしか販売していなかったので、みんな夜通し踊り明かすことができ、アフターパーティー向けの場所としては最高だった。当時はシカゴでもディスコブームが起こっており、白人向けのクラブへ入れなかった黒人向けのアフターパーティーとして、様々なクラブが営業を開始し始めた。この頃からWilliamsは、ニューヨークのDavid MancusoやLarry Levanのもとへ通ってレコードを仕入れるようになっていた。

US Studioが会費の問題で瓦解した後、Williamsが手頃なサイズのクラブを模索したのが「The Warehouse」だった。

The Warehouse

月に2回のパーティから始まったクラブでは、オープニングパーティーでは、Paradise Garageを手がけたRichard Long & Associatesの面々もサウンドシステムやライティングのために招聘したが、始まりはそんなに話題になるほどでも無かったというのはさっき書いた通りだ。しかし、Frankie Knucklesのプレイが知られるにつれ、このクラブは徐々に知名度を上げていくことになる。

当時の様子はいろんなインタビューで今でも読むことができる。その雰囲気はParadise Garageなどの当時のクラブとそんなに変わらなかったみたいだ。

Cannon exclaims, “Oh, definitely. Everything was spiked. It was just crazy.” Williams recalls that they “had marathons which lasted a couple of days. Like twenty-four hours. Kids would go home, change clothes, come back.”

(アルコールは入っていたのか?という質問に対して)Craig Cannonは「ああ、当然(アルコール入り)だ。全部アルコールが入ってた。マジでクレイジーだった」と語る。Robert Williamsも「2日間ぶっ通しのマラソンみたいな夜もあった。24時間踊りっぱなしだから、途中で着替えてから戻ってくるヤツもいたんだ」と回顧する

– – – The Warehouse: The place house music got its name

Paradise Garageにいたのと同じく、The Warehouseに集まったのも当初はゲイばかりだったが、人気になるにつれてストレートの若者も集まるようになっていった。ゲイのふりをして入店することが流行ったとすら言っているDJもいるぐらいだ。

“The Music Box” VS “The Power Plant”

Frankie KnucklesがプレイしていたThe Warehouseは確かに人気絶頂のクラブにはなったけど、ハウスミュージックが本格的に花開いていくのは、残念ながらThe Warehouseがクローズした後の話だ。

人気になるにつれてFrankie Knucklesはもっと違う方法論を模索しようとしていた。事実、1982年にはFrankie KnucklesはThe Warehouseを去ることになる。原因の発端は入場料の値上げに対する考え方の違いによるものだった。The Warehouseがクローズする間際には、特にハイティーンの間で人気になりクラブ内が無秩序になりつつあった。フロアで強盗すら起こるようになり、入場者を規制する意味もあってか、入場料の変更を検討していた。

そうしてThe Warehouseはクローズ。Frankie Knucklesは自分のクラブ「The Power Plant」をオープンさせ、一方のWilliamsは数ヶ月後に「The Music Box」をオープン。このシカゴを代表する2つのダンスフロアが競い合うことで、ハウスミュージックはどんどん成熟していく。Frankie Knucklesと並んでこの時期にシカゴのスターDJになった人物としては、The Music BoxでDJを務めたRon Hardyがいる。

Ron Hardyはもともとシカゴで1974年にオープンしたクラブ「Den One」のDJだったが、翌年カリフォルニアのCatch OneでDJをするためLAに移り住んでいた。82年にThe Warehouseをクローズさせ、新しくThe Music BoxをオープンさせたRobert Williamsは、当初は自分がDJをやっていたのだけれども、Frankie Knucklesに対抗すべく新しくシカゴのスターとなるDJを探していた。そうしてThe Music BoxのレジデントDJとしてRon Hardyを招き入れた。

実際にプレイされた様子を収録した上の動画を聴くと良く分かるんだけど、Ron Hardyのプレイはとても攻撃的で革新的だ。繰り返すキックと身近なフレーズはループ感が強くて、テープを逆再生したり、ミックス中に不気味な笑い声を織り交ぜ、もはや音楽は歌を聴くためのものというより、純粋にダンスのためにあるサウンドへと高度に抽象化されている。当時のフロアで大流行したハウスクラシック「I’ve Lost Control(1986年)」とかを聴くと、その雰囲気が良く分かる。

https://www.youtube.com/watch?v=YuG–tBp4z0

「I’ve Lost Control(1986年)」は若き日のMarshall Jeffersonが“VIRGO”名義でSLEEZY Dと共作したレコードで、このタイトルはMarshall Jeffersonが、The Power Plantに行ったときの衝撃からインスパイアされてつくったものだ。そのDJブースにいたのはもちろんFrankie Knuckles。当のFrankie Knucklesも実験的なトラックをリリースし始めていて、「Baby Wants To Ride(1987年)」あたりがそれに当たる。

86年から87年にかけて初期の名曲が多い理由は、ずばりカセット。80年代の半ばに制作され、クラブで流れていた曲のほとんどはデモテープとして出回っていたものだった。フロア受けすることを確かめてから、それらの楽曲は目をつけたレコード会社が次々にリリースした。

 

ハウスクラシックたちとシカゴの凋落

Trax Records

80年代後半以降のハウスミュージックを語るうえで欠かせないのが、レコード会社の存在。そのなかでも突出して語られることが多いのが「Trax Records」だ。「Trax Records」はLarry ShermanがJesse Saundersのトラックをリリースするために、1983年から84年にかけて準備され設立された。なのでJesse Saundersの「On & On(1984年)」はレコードとして正式に発売された始めてのハウストラックということになる(レコーディングされたのは、実は冒頭に出てきた「Your Love」が先)。

当時レコードのプレス工場を運営していたLarry Shermanは、工場に音源を何度も持ち込んでは自主制作レコードで小遣い稼ぎをしていた少年を見て、金になると思って会社を設立したらしい(その少年はプロデュースという肩書きを世の中に浸透させることになるVince Lawrence)。実際Larry Shermanの経営手腕は素晴らしく、やり方としては褒めたものじゃないけど、数多くの名作といわれるトラックが「Trax Records」からリリースされた。

先ほど「I’ve Lost Control(1986年)」を制作したと書いたMarshall Jefferson(VIRGO)は「Free Yourself(1986年)」や「MOVE YOUR BODY(1986年)」という名曲もTraxに残している。Mr. Fingersの「Can U Feel It(1986年)」やPhutureの「Acid Tracks」もTrax。そして、これらハウスクラシックと呼ばれる名曲のほとんどは80年代半ばに制作されたものだっていうことも興味深い。

この頃のMarshall Jeffersonは結構神がかっていて、当時は郵便局員だったらしいけど5000ドルはたいて機材を買い、楽曲制作に夢中になってクラブにも行かなかったそうだ。

アメリカ全土、そして世界に注目され始めたハウス

レーベルとして存在したのはもちろんTraxだけではない。D.J. International Recordsというレーベルからは、同じ時期にJ.M. Silkの「Music Is The Key(1985年)」がリリースされた。

https://www.youtube.com/watch?v=QRsasda3aNY

「Music Is The Key」はハウスレコードとしては驚異的な10万枚以上を売り上げ、アメリカのダンスチャートの9位にランクイン。Adonisの「No Way Back」も当時だけで12万枚売れた( e.g.ブラックマシンミュージック)。

こうしてハウスミュージックはアメリカはもちろんのこと、イギリスのレーベルにもライセンスされ、世界的に売れるようになっていく。そして世界で最も売れたとされるトラック、Lil Luisの「French Kiss(1989年)」がFFRR Recordsから登場する。

https://www.youtube.com/watch?v=6Kag4l5ICq0

曲の途中でスピードを完全に止めてしまい、(5:30ぐらいから)セクシーな喘ぎ声を拝むことができるこのハウスクラシックは、Traxによる豊作真っ盛りの1987年に録音され、89年にFFRRからリリースされたとたん全世界で爆発的に売れた。往年のハウスを好むDJなら、いまだにこれを使ってプレイしているDJも多い。そうして90年代には、ハウスはHIPHOPと並んで大きな影響力をもつ音楽ジャンルだと見なされるようになっていった。

80年代の半ば以降、ハウスはキックとハイハットを特徴にしつつ、ループ感の強いフレーズをもった音楽であるという風な定義が定着していき、アレンジもより洗練されていって、ポピュラーミュージックとして十分通用するものになっていった。大衆音楽の一種のリミキシング、アレンジの手法のひとつとして確立したハウスは、音楽業界の一角を完全に掌握。特に、90年代のFrankie Knucklesはメロディアスで綺麗なものが結構あって、「The Whistle Song(1991年)」あたり僕は好きだ。

1990年代はビルボードの上位に食い込むような大衆音楽も、様々なハウスリミックスを制作された時期で、いろんなアーティストのヒットソングにはB面にハウスアレンジが入っていることも多い。その流れはいまでも続いているところを見ると、ポップスをダンスフロア向けにアレンジするというのがマーケティング的にいかに重要な作業であることが分かる。

シカゴの凋落、その原因

元々コミュニティミュージックというか、一種のムーブメントのようなかたちで広まったハウスの世界においては、Trax Recordsもレコード会社というかたちをとったレコード工場ぐらいの感じだったし、商習慣としてはあまりにも杜撰なビジネスが横行していた。アーティストへのギャラなんて大した額も出さず、結果としてクリエイターたちは大金をつむニューヨークへと流れていった。ハウスというムーブメントは、ニューヨーク経由で徐々に知名度を上げていくにつれ、商業主義が瞬く間に浸透し、音楽業界は(というか世界規模の経済が)売れるためにハウス風のトラックを量産し始めて、さらに成功していく。

名曲「MOVE YOUR BODY」は、今でもフロアで大活躍するクラシックだが、これはMarshall Jeffersonがレコードをプレスしようと持ち込んだものを、Larry Shermanが勝手にTrax名義でリリースしたものだ。ブチギレして揉めに揉めたらしいけど(だからこそD.J. International版のレコードも出ているんだろう)、そういう悪行が語り草になるぐらい当時のハウスミュージック界隈は無法地帯のような感じだった。

楽曲を安値で買い叩き、その権利は海外に即金で売り払われた。そうしてシカゴのミュージシャンたちは詐欺師のようなシカゴのレコード会社から離れていき、大金を積んでくれるニューヨークや海外のレコード会社に流れていった。シカゴの第一世代だったアーティストたちは、ハウスムーブメントを牽引する存在というより、(もちろん精力的にリリースはしているし、第二世代以降のハウスアーティストはシカゴから生まれているが)楽曲のハウスバージョンを制作するリミキサーのような存在になっていくと言ったほうが良いかもしれない。

正直、この話に教訓なんてない

1985年、シカゴは未来都市としての夢をもっていたが、5年後にはゴーストタウンいなっていた。そこでのハウスは一過性の流行に過ぎず、パイオニアたちにとっては悪い思い出にしかならなかった。外部からはハウスは華やかに見えたかもしれないが、内情はひどいものだった

– – – Le Chant De La Machine

シカゴには人気のクラブあったし、DJも、そしてトラックメイカーもいた。けれども、それらを健全なカルチャーとして育てていこうという気概のあるプロモーターはいなかった。そうしてシカゴは、ハウス発祥の地という文脈では語られながらも、中心地ではなくなっていった。1986年にThe Power Plantは閉店し、翌年Frankie Knucklesはニューヨークへと戻って行った。そして88年にはThe Music Boxも閉店した。

世界的に有名なジャンルとなったハウスなわけだけど、シカゴ自体はそれ以降あまり発展することはなかったっていうのは、テクノ音楽との大きな違いだ。メインストリームに飲み込まれ、その後シカゴは大きな発展を見せず、ダンスミュージックの本場はデトロイトやイギリスへ移ってしまう。その辺りの話は前にもちょっと書いたけど(→ 音楽が鳴りはじめ、ダンスが生まれる)、今後別の記事で紹介したい。

とはいえ、ハウスから派生した試みとして様々なサウンドがつくられたのも事実で、後編ではハウスクラシックとされる名曲やニューヨークも含めたDJの話題を中心に、いくつかのポイントをまとめよう。

DJ, Artist, CLUBで繋がるHOUSE MUSICの歴史 後編はこちら

 

参考

・The Warehouse: The place house music got its name

・Ron Hardy at The Music Box

 

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