はじめてダンスミュージックのフロアを見たのは高校生のときだった。オープンDJをしていたクラブが倉庫街に移転してしまって、こけら落としのパーティーに誘われたときだ。

 

僕は踊れなかった。

そのときまで、僕たちはHIPHOPしか知らなかった。クラブというのはDJやラッパーたちのパフォーマンスを観て、コール&レスポンスをする場所ぐらいにしか思ってなかった。お目当てのライブを見終わったあとは、友だちもどこかに行ってしまって、遠目でフロアを見ていたら全然知らないリズムの音楽が流れていて、それがテクノだった。

フロアではみんな一心不乱に踊りまくってた。そのなかでひと組のカップルが、フロアのど真ん中で抱き合いながらキスしている。その景色が「綺麗だなあ」とぼんやり思っていた。

そして僕は、そのテンポでは踊れなかった。踊り方を知らなかったから。

 

 

音楽とダンス、そしてDJの歴史

巨大な音響設備から、歪みなく大音量を流すのは、実はとても難しい。それがサウンドエンジニアの腕の見せ所で、普段大量の工業部品が格納されるはずの倉庫には、その一晩のためだけに大量の電力と、機材と、ケーブルが用意される。それは前衛的なアーティストがやるような一夜限りの作品みたいだ。

巨大なスピーカーから音楽が鳴り始めると、みんな思いおもいに、身体をゆすったり、飛び跳ねたり、ダンスを始める。だからDJは彼らの足を止めないように、一晩中ダンスミュージックを切れ目なくつなぎ続けるのが仕事というわけだ。

前回の記事では、第二次大戦後のクラブカルチャーやパーティーを語る前に、音楽を聴きながら楽しむという行為がいつ頃できたのかや、レコードの誕生。そして、そこから生まれた最初のディスコについて書いてみた。現代的なクラブのルーツとして通説となっているのは、ナチス占領下のフランスにおける「ディスコティーク(discothèque)」がそれにあたる。

ただし書き忘れたことがあった。それは「ダンス」にまつわるものだ。

「ダンス」「踊る」ないしは「ノル」という動詞は、DJやクラブカルチャーと切っても切れない関係のある、とても重要な要素だ。音楽に合わせて踊る、ということは、どういう意味があり、どんな変遷があるんだろう。今日当たり前になっている「音楽に合わせて踊るということ」について考えてみた。

 

ディスコティークにおけるダンスとは何だったか?

現代的なクラブのルーツである、フランスのディスコティーク。そこに集まり、レコードの音に合わせて踊っていた若者ザズー(zazous:ナチス占領下のドイツでディスコに通った若者たちの総称)たちはどんな風に踊っていたんだろうか。その呼び方のもとになっている動画を再掲して確認してみると、とてつもなく変なダンスだった。

この変な動き、ぱっと見だとホントにヤバそうなんだけれども、その後70~80年代に流行したアメリカのヒット番組「SOUL TRAIN」のダンス映像と見比べると、とても面白い。

似ていなくもない。どちらも、一定のルールには従いつつ、だがしかしフィーリングに合わせて動きを次々に変えていく、とても自由なスタイルのダンスだ。曲が変わっても、一定のリズムさえキープしていればずっと踊り続けられる点でも、とても似ていると僕は思う。

 

DJ前史におけるダンスの変遷

単にダンスというと、本当はいろんな種類がある。

はじめに言及したような、非常に個人的なダンスもあれば、HIPHOPダンスのようなチームで踊るものもあったりする。見せるためのものなのか、もしくは別のものなのか、といった区別もあるけど、今回はクラブカルチャーやDJの歴史につながるように、ちょっと変わったいくつかの切り口でみていきたい。

 

狂騒の20年代と禁酒法

現代のクラブにつながるような、フロアでダンスする、というかたちを辿ると、1920年代のアメリカまで遡ることができる。当時アメリカは第一次対戦が終結し、好景気とともに新しい時代の幕開けが訪れた時期だ。

狂騒の20年代の精神は、現代性に関わる不連続性、すなわち伝統の破壊という一般的な感覚が特徴である。あらゆるものが現代技術を通じて実現可能に思われた。特に自動車、映画およびラジオのような新技術が、大衆の大半に「現代性」を植えつけた。形式的で装飾的で余分なものは実用性のために落とされ、建築や日常生活の面に及んだ。

同時に、まだ大衆の心に残っていた第一次世界大戦の恐怖への反動として、娯楽、面白みおよび軽快さがジャズやダンスに取り込まれた。そのためこの時代はジャズ・エイジと呼ばれることもある。- – – Wikipedia(狂騒の20年代)

1920年代は、日本でいうと80年代のバブル経済のようなもので、そこでは新しいもの、新しい価値観をつくっていくことこそがアメリカ的だとされた。中産階級の人々はこぞってラジオ番組を聴き、自動車を買った。それが正義だった。

一方、アッパーな1920年代のアメリカ社会を代表する失敗として「禁酒法」が知られている。これは文字通り「酒をつくることも、売ることも、持ち込むことも禁止する」という内容の法律で、敬虔なキリスト教徒や、アルコールを禁止して売り上げ増を見込む炭酸飲料メーカーの思惑によって、各州に批准されてしまったものだ。当たり前だがアメリカ人全員がこれを守るわけもなく、結果としてアメリカ全土にもぐりの酒場が登場することになる。シカゴでは密造酒を取引するギャングたちが大儲けし、ギャング同士の抗争も激化した。アル=カポネが台頭したのはこの頃だ。

 

カンザスシティとダンスフロアの興隆

禁酒法の時代と言われた1920年代の特筆すべき点としては「ニューオーリンズにおけるジャズの誕生」と、「カンザスシティでのダンス音楽の大衆化」という出来事がある。

ジャズはアメリカ南部、ルイジアナ州にあるニューオリンズで生まれた。南北戦争のマーチングバンドが売り払った楽器が、南部には大量に出回っていて、それが発展の土台となった。ジャズはアフリカ系アメリカ人、つまり黒人が始めたとされているが、商業向けのレコードとして最初に吹き込まれたのは白人のバンドだ。1917年にOriginal Dixieland Jass Bandというバンドが、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”という2曲入りのシングルを発表したのが最も古いジャズレコードとして知られている。

Photo:Wikipedia

ジャズは、新しいものが是とされた当時のアメリカと、親和性がとても高かった。それはアメリカ固有の音楽が生まれてくる息吹を感じさせ、もぐりの酒場でリズムに身を任せるのにうってつけのものだったからだ。

そしてジャズはアメリカ全土に広がっていく。そのターニングポイントになったのがカンザスシティにおけるジャズだ。もともとカンザスはアメリカ中西部ミズーリ州にある田舎町だった。1925年、トム・ペンダーガストという実業家の重要人物が市会議員に選出されるまでは。ペンダーガストは賄賂政治でカンザスを牛耳ってて、要はカンザスのフィクサーだった。経済的な利益からペンダーガストはナイトクラブを警察から保護し、その庇護を受けるかたちで、カンザスのナイトクラブは禁酒法を事実上無視して夜通し営業することができるようになる。その結果、当時では全米でも有数のナイトクラブ地帯となり、全国からツアーを巡業するジャズメンたちがカンザスに立ち寄ることになった。以降、カンザスは音楽の一大拠点として発展していくことになる。

その後にジャズの方向性を大きくかえる「ビバップ」というスタイルが勃興するが、そのビバップをつくったチャーリーパーカーもカンザス出身だ。禁酒法の撤廃と、ペンダーガストが失脚したおかげで、カンザスのミュージシャンは都市部に進出していくわけだけど、これが後のビバップの誕生へと繋がる。

話を戻すと、1920年代のカンザスで人気絶頂にあったバンド、それがカウントベイシー楽団だ。

当時ピアノの奏法だった「ブギ」をバンド化し、スウィングにした演奏。これを踊るためにうみだされたのが「リンディホッピング」と呼ばれるダンスだった。

 

リンディホッピング

リンディというのは「リンドバーグ」のことで、1927年に大西洋横断無着陸飛行を成功させた飛行士。「リンディ」という名前は、全米がお祭り騒ぎになったことになぞらえてつけられた名前だ。

近代に成立したダンスのようにカップルダンスという体裁は残しながらも、そのステップはワルツやメヌエットを踊るような、足でリズムをとるものとは違って、どちらかというと腰から首にかけての「体幹」で踊るようなダンスになってる。比較的ソロの時間も多く、即興的に踊ることができるダンスで、この点からしても「厳密な規則に従って踊る」いわゆるバレエや近代の社交ダンスというヨーロッパ的なものとは対照的だ。

カウントベーシー楽団が演奏していたリフミュージックは、もともとの由来はブルースで、フレーズを反復・強化することで踊り続けることができるようにしたものだった。そしてそのリズムは、ヨーロッパの伝統的なダンスに対応したリズム感というよりも、黒人のリズム感のほうがピッタリだったのだ。

 

スウィングの大衆化とビバップによるジャズとダンスの決別

カンザスのリフミュージックは40年代からスウィングミュージック化していき、高揚感を高める音楽として全米各地で演奏されることになる。これは第二次世界大戦まで続いていく流れで、その経緯は前回の記事にも書いた通りだ。スウィング形式のジャズはそういった国策として機能した。ただしその片棒を担がなかったヤク中のジャズメンたちが生み出したジャズがある。それが「ビバップ」だ。

ビバップは大人数のバンドスタイル、いわゆる楽譜を見て厳格に演奏するスタイルから、アドリブを重視して音楽の演奏自体をゲーム化することに成功したジャズだ。また、コード(和音)という音のかたまり、グループを機能的に使い分け、メロディの進行感を獲得しながら、ジャズの抽象化に成功した。このビバップの完成を経て、モダンジャズの前提となるスタイルが確立したともされる。

ただし一点だけ問題があって、ビバップは当時踊れなかった。この高度な音楽的で、知的ゲームに、ステップでついていけるひとが少なかった。今からすると、まあ踊れないこともないけど。

その後ビバップの系譜からマイルスデイビスというジャズ界の巨人が生み出した「モード」と呼ばれるスタイルが広がっていく。このモードと呼ばれるジャズのスタイルは50年代の後半から登場し、マイルスデイビスの「Kind of Blue」で完成した。

いま「ジャズ」というと、アーバンで、落ち着いた音楽を指すのがほとんどだが、そのスタイルが出来上がったのが40年代後半~50年代のこのタイミングだ。

 

ジャズから始まるイギリスのDJカルチャー

ビバップのジャズでは踊れない。そうしてダンスというキーワードはジャズから離れていく。ただし例外があって、積極的にビバップのジャズで踊っていたひともいる。それはイギリス人だ。

 

ビバップで踊っていた80年代のロンドンナイトクラブ

80年代、イギリスのクラブではジャズが流れていた。それも 50年代~60年代のビバップで踊っていた。イギリス最先端のクラブでだ。イギリスではその後、80年代後半から90年代にかけて「アシッド・ジャズ」と呼ばれるコンセプトというか「クラブでジャズで踊るのがオシャレ」みたいなブームが起こる。そのなかで出てくるのがJamiroquaiやINCOGNITO、Brand New Heaviesといったアーティスト。

ジャズじゃねえじゃん。という異論は認める。というのもイギリスの指す「ジャズ」「ジャジー」というのは、僕らが意識しているジャズよりも広い意味で、「ジャズ、スウィング、R&B、ソウルやファンク」といったブラックミュージック全体を指して呼んでいるといっても良い。イギリスというのはもともと植民地がたくさんあったので、世界の音楽が流入する土壌があって、だから90年代にワールドミュージックブームとかがイギリス発で起こるのだけど、そういったざっくばらんな音楽的感覚があるのかもしれない。

 

「トゥウェンテイーズ・リヴァイバリスト・ジャズ」ムーブメント

イギリスのクラブがジャズを参照していたのは、実はもっと前からで、最も最初期のものとしては1940年代に起こった「トゥウェンテイーズ・リヴァイバリスト・ジャズ」というムーブメントがある。これはざっくり言うと「40年代の最先端 = 20年代のジャズを聴くのがオシャレなんだ」っていうスタイルで、これを牽引した若者文化の土台が、後に「モッズ」と呼ばれるイギリス・サブカルチャー史上最大の出来事につながる。Wikipediaで「モッズ」の項目を読んでみると、これがむちゃくちゃ面白い。

モッズ (Mod、Mods、Modernism or sometimes Modism) は、イギリスの若い労働者がロンドン近辺で1950年代後半から1960年代中頃にかけて流行した音楽やファッションをベースとしたライフスタイル、およびその支持者を指す。モッズファッションとしてよく連想されるものとして、髪を下ろしたMod Cut、細身の三つボタンのスーツ、ミリタリーパーカー、多数のミラーで装飾されたスクーターなどがある。

(中略)

モッズは衣服や音楽に興味を示し、彼らが好んで聴いた音楽はアメリカのレアな黒人音楽、R&Bやソウル・ミュージック、ジャマイカのスカ(多くのスカのレコードを出したレコードレーベル名により、ブルービートとも呼ばれる)などであった。またイギリスのグループとしてはザ・フー、スモール・フェイセス、キンクス(ただしレイ・デイヴィスはモッズを嫌っていたという説がある)、スペンサー・ディヴィス・グループなどが好まれた。ビートルズは、デビュー前は正反対のロッカーズファッションをしていたがマネージャーの指示によりモッズファッションでデビューした。

モッズは深夜営業のクラブに集まり、ダンスに興じたりその衣服を見せ合ったりした。彼らの多くはスクーターを移動の手段とした。エンジンが剥き出しのモーターサイクルではスーツが汚れてしまうためである。- – – – Wikipedia(モッズ)

80年代のクラバー達がビバップで踊っていたのと同じように、50年代の若者はもっと以前の20年代の音楽を聴いていた(当時は生演奏とSPレコードの併用であったと思われる)。しかもイギリスでは40年代から50年代に入っても、いわゆるシカゴ系の、ビバップ以前のディキシー風味のジャズが主流だったのは興味深い。

そしてこの「音楽とファッション(あとドラッグ)に興じる、退廃的な生活」というコンセプトは、アメリカでディスコブームの火付け役となった映画「Saturday Night Fever(1977)」に出てくるジョントラボルタ扮するトニーにもそっくりだ。

 

イギリスで早々に完成していたクラブDJのスタイル

リヴァイバリスト・ジャズのムーブメントで語られる1940年代のイギリスでは、まだ生演奏がほとんどだった(SP盤のレコードはあるが、塩化ビニールのレコードが登場するのが40年代後半)。では厳密にレコードだけでDJをするっていうスタイルはいつ生まれたのか?

生バンドではなく、レコードを選曲してフロアに音楽を流すという意味において、DJスタイルが確立するのも、実はアメリカよりイギリスのほうが早かった。1960年代のロンドンでは既にクラブでレコードがかかっていて、しかも、ロックンロール、R&B、スカ、ジャズ、ソウル、特にブラックミュージックが流れていた。その時期の最も有名なDJとしては、Guy Stevensを挙げられる。Guy Stevensは後にThe Clashの2枚目にあたるアルバム「London Calling(1979年)」のプロデューサーも務めた大物だ。

こうして見ると、メンバーの服装が少しモッズ風味。

 

イギリスにおけるその後のダンスシーン

ちなみに、その後の話を書くと、アメリカでその後生まれるハウスカルチャー、ハウスムーブメントはもちろんイギリスにも流れ込んでいて、80年代後半(特に88年、89年)には「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれる社会現象をイギリスで生み出す。これはアメリカのウッドストックのようなヒッピーカルチャーの現代版で、簡単に書くと幻覚剤をキメてトリップして踊りまくるという現象なのだけれども、最大の特徴は屋外で踊っていたというところだ。

80年代後半。イギリスでは、ロンドン以外の北部でもクラブカルチャーは盛り上がりを見せていた。特に盛り上がっていたのがマンチェスターやリバプールだ。しかし、マンチェスターでは法律で26時までしかクラブで営業することができなかった。そこで朝まで踊りたいクラバーたちが始めたのが、「レイブ」だった。レイブは倉庫や屋外スペースを不法に間借りしておこなうパーティーで、工業都市群のひとつである北部にいたクラバーたちにはうってつけのイベントスペースだったのだ。そこではハウスのなかでも、もっととんがった「アシッド・ハウス」が爆音でかけられ、ほとんどみんなラリってた。

このようなパーティーの様子は、アメリカ映画だけど「Groove(2000)」あたりが(警察に踏み込まれるところも含めて)とてもよく分かってオススメです。流れているのはアシッドハウスというより、プログレッシブなテクノ。

この映画を観ると、DJやイベントのオーガナイザーは、音楽を聴きにくる(踊りにくる)クラウドたちと共犯関係を結んでいるのがよく分かる。

僕は最後に流れる曲がとても好き。これは、Scott Hardkissの「Infinitely Gentle Blows (Scott Hardkiss Aural Hallucination Mix)」ですね。

レイブカルチャーがもたらした影響は大きい。これまでのイギリスでは、クラブはある程度人種や階級によって暗黙の線引きがあった。でもレイブは違う。それは、その時間まで踊っていた別々のクラブが店閉まいした後に集まるもので、人種や性的嗜好も関係ないもので、皆「朝まで踊り明かしたい」という一点において目的を共有していた。「踊る、ダンスする」という点において、垣根を超えたゆるい連帯感すら感じることができるようになっていた。アシッドハウスというジャンルはその後、92年ぐらいにまたイギリスで盛り上がることになる。

 

DJの歴史とダンスの歴史 -その交差点-

ディスコティークから、ディスコへ

フランスで生まれた場所としての「ディスコ」。文献が入手できなかったけど、そこからアメリカにできる現代的な最初のクラブが、1960年の大晦日にできたのが「Le Club」、続く1965年にできた「Arthur」がそれに当たる。そして、伝説的なクラブ「Electric Circus」が1967年にオープンする。続々とNYに登場したディスコだけど、公に「ディスコ」という名称を使ったのは1964年のPlayboy誌で、「ディスコティークスタイルのナイトクラブ」という意味の単語が短縮されたものとして使われた。「Le Club」ができた少し後だ。この60年代以降80年代にかけて、クラブにおけるいわゆる現代的な踊り、リンディーホッピングからカップルダンスの要素を取り除いた、フリーフォームで個人が踊るような様式のダンスが徐々に出来上がっていく。

Photo:nydailynews.com

タイムズスクエアの「Peppermint Lounge」や「Arthur」といった当時に一世を風靡したクラブは、ニューヨークの華やかな夜の社交場として人気を博す。ただし、そこで流れていた音楽のほとんどはロックであり、踊っていたのは白人の中産階級だった。ウッドストックフェスティバルが1969年に行われた、そんな時代だ。

ウッドストックの余波、「サマー・オブ・ラブ」ムーブメントの波はLSDというドラッグのかたちをして、そういったのクラブにも流れ込んだ。その様子を危惧した当局は、酒類販売の免許取得を厳しくしてクラブを締め出しはじめる。そうして60年代の終わりに差しかかると、クラブカルチャーは衰退していくことになる。そんな苦境の中で、クラブたちは営業を続けるための道として、ダンスフロアをこれまで中心的だった白人中産階級から、黒人やヒスパニック、労働者階級の白人といった、それまで入場することができなかった人々へと開放していった。まさにダンスを求めていた人々がクラブへと押し寄せるようになった。ヒッピー思想や瞑想などどうでも良かった。とにかく、踊ることができれば良かったのだ。

 

ストーンウォールの反乱とDJミックスの誕生

クラブカルチャーが死に体と言われるまでになりつつあった、1969年6月28日。NYのLGBTコミュニティでは、歴史における革命的な事件が起こっていた。それが「ストーンウォールの反乱」だ。

ストーンウォールとはNYにあった「ストーンウォール・イン」というゲイバーで、ここから始まった暴動は「ストーンウォールの反乱」と呼ばれている。「同性愛者らが初めて警官に真っ向から立ち向かって暴動となった事件」として知られていて、この事件を始まりとして、LGBTコミュニティは権利獲得運動で盛り上がっていく。

そしてちょうど同じ頃、ディスコのフロアでは別の革命が起こっていた。それが「曲と曲を繋げる」というミックススタイルのDJの誕生だ。Francis Grassoと呼ばれたそのDJは、都市のなかで隠れて生きるゲイたちに、ステップを止めることなく、永遠に踊り続けられる魔法を編み出していた。

Photo: rutherfordaudio.com

Francis Grassoはもともと「Salvation II」というマンハッタンのクラブでDJをしていて、閉店を機に「Sanctuary」というクラブに誘われた。グラッソがサンクチュアリーに来てしばらくすると、クラブのマネージャーは17万5千ドルもの売上金を持ち出してトンズラしてしまう。そのときの経営危機を救ったのが、シェリーという中年男性だった。性別としては。

彼、というか彼女はドラァグクイーンでゲイだった。そうして「アメリカで初の、まったく拘束される心配のないゲイ・クラブ」が誕生したのだった。サンクチュアリーはゲイの溜まり場ではなく、むしろまさに聖地になる。そこには、ゲイでも堂々と入り、朝まで踊り明かせるディスコ空間があった。

それ以降の経緯は、ドキュメンタリー映画「MAESTRO」に詳しい。ディスコから生まれたハウスミュージックと、それに連なるテクノミュージックについては、また別の機会に書くことにしよう。

 

ディスコとゲイコミュニティ

このディスコ・ムーブメントをアメリカで発明・発展させるきっかけになったのはNYのゲイコミュニティ、特に黒人やヒスパニックのゲイだったというのは、いまでは常識になっている。

クラブが続々とオープンしだす直前、1962年にアメリカでは「自然に反する性行動を違法とする」ソドミー法というのが発布されていた。これは簡単にいうと同性間の性行為を禁止するもので、60年代というと黒人の公民権運動がピークに達するのがそのあたりなわけで、ゲイの黒人というと二重に差別されている時代なのがわかる。一般社会では差別されていたゲイ達は、カミングアウトしようものなら、それはほとんど死を意味するぐらいのことだった。その苦しみを忘れられる場所として、ディスコで夜を踊り明かし、ストレスを発散する道を選んだのだった。

ディスコカルチャー(ここではもうダンスカルチャーとも言ってもいいかもしれない)は、70年代後半には大きな盛り上がりを見せながらも、大きな批判もあびていた。それは出自がLGBTに端を発する享楽的なアクティビティだったからだ。事実、こんな出来事もあった。

1979年、シカゴ・ホワイトソックスのホームスタジアムでは、デトロイト・タイガースとのダブルヘッダー第一試合終了後、1万枚以上のレコードがグラウンドに投げ込まれ、そして燃やされた。(出典:「ブラック・マシン・ミュージック」)

ここで燃やされた音楽は全て「ディスコミュージック」と呼ばれていたものだ。そのアンチ・ディスコ・キャンペーン(ディスコ廃絶運動)には、黒人政治家すら参加している。

 

フィリーソウル、サルソウルレーベル

そして、60年代後半には衰退しつつあったクラブカルチャーは、アンダーグラウンドなかたちで復権する。そうして、一気にディスコムーブメントを推し進め「躍らせるものにした」最初の音楽、それがフィリーソウルだ。

フィリーソウルの「フィリー」はフィラデルフィアという意味で、フィラデルフィア発のソウル、特にこの時期精力的というか、ほぼソウル界を席巻した「フィラデルフィア・インターナショナル・レコード」に由来する。そのほとんどはシグマ・サウンド・スタジオという伝説のスタジオで録音された音源である。1973年にMFSBがリリースしたファーストアルバム「Love is the Message」はNYにおけるクラブアンセムだ。時代遅れになりつつあったクラブカルチャーは、73年から息をふき返した。

MFSBのなかでも特に有名なのは、最初に紹介した「SOUL TRAIN」という番組のテーマ曲「The Sound of Philadelphia(TSOP)」。とても有名な曲なので、知っているひとも多いかもしれない。

MFSBのメンバーたちは、後に1974年に設立されたSALSOULというレコード会社に移籍することになり、新たなバンドを結成する。それが、後に数多くのディスコクラシックのバンクバンドを務めるSalsoul Orchestraだ。サルソウルとしては(ディスコ向けという意味ではなく)初の流通向け12インチレコードを1976年にリリースする。それが「Ten Percent」。

この曲はアンダーグラウンドから10万枚を超える大ヒットを記録した。

サルソウルは、それまでもあった16ビートのキックとハイハットをさらに強調することで、ソウルをダンスフロア向けの音楽として作り変えた。フレーズは力強く反復され、ドラマチックなストリングス(弦楽器)と、異国情緒の漂うラテンパーカッションをさらに加えることで、圧倒的に高揚感のある音楽をガンガンリリースしていった。

この高揚感は、カンザスシティのリフミュージックにも通じるところがある。

 

DJカルチャーにおけるダンスとは

50年代のイギリスにおけるモッズも、60年代のNYにいたLGBTたちによるダンスパーティーも、都市という空間であるからこそ生まれたものだ。

 

都市における仮面性とクラブ、ダンス

都市生活ではオンとオフが明確に隔てられ、現代の僕らも、ある意味仮面を被ってオンの時間を過ごしてる。

モダニストのファッションスタイルは巧妙に細工が施されたスーツだった。それは一見するとオンの社会空間にいても違和感のない、だがしかし見る人が見ればモッズスタイルであることが明確に分かるもので、暗に周囲との差異を主張しているかのようでもある。

NYにいたLGBTたちもそういった仮面を被っていた。カミングアウトすることは、周囲から精神的にも、ひょっとすると(殺されるかもしれないという意味において)現実的にも排除されることを意味したし、だからたとえエリートサラリーマンであっても、決してとることのない仮面をつける必要があった。

この仮面性こそが、アンダーグラウンドなダンス空間を生み出した。

彼らは確かに社会の主流ではなかったけれど、過激なロックンローラーのように暴力的な思想や破壊衝動はもっていなかった。モッズはロッカーズスタイルとの喧嘩から暴動が起こった(ブライトンの暴動)けど、それは社会に対するアクションではなかったし、LGBTは「ストーンウォールの反乱」まで、声をあげたり主張すること自体が考えられないものだった。仮面をつけ、ただただ日中をやり過ごし、だからこそオンの世界から切り離された空間で踊ること、ダンスを選んだのだ。

 

クラブDJにおけるダンスの再発明

元来、集団で踊ることは共同体の維持が目的だった。

それは日本でも見かける阿波踊りや河内音頭のようなもので、帰属意識を高めたり、神様や王様に捧げるためのものだ。そのためには、踊りには厳密性が存在する必要があり、厳格なステップや動作が求められる。

一方でカンザスで踊られたリンディホップや、ジターバグ(Jitterbug)は、そこから踊ること自体の楽しさを追求したもので、誰かに見せるために踊るものではない。もともとペアで踊るものだったディスコの踊りも、徐々にカップルダンスという形をとらなくなっていく。それはダンスミュージックへと突き進む必然的な流れで、究極的には自分が踊ることさえできれば良いのだ。

その発想はとてもモダニストやNYのLGBTと、とてつもなく親和性が高かった。踊り続ける、ステップを踏み続けること、それ自体の快感を追求することこそが重要なのだ。仮面をとった彼らや、僕たちに、思想性はほとんど無い。ともに同じ空間で踊っているという事実だけで、ゆるい連帯が生まれ、そして安心できる。それは今でいうインターネットにも近いもののような気がする。

そこではDJは、神様や王様のように権力者として振舞わない。むしろ個人として踊り続ける僕らの共犯関係を結んだ存在として、ディスコやクラブにただ「音楽を供給するひと」として存在する。それがダンスを再発明したDJの役割であり、DJがDJの歴史をつくり始めた瞬間なのだ。

 

変わりゆくサウンド、クラブ、クラウドそしてダンス

リンディホップやディスコダンス、そして現代の個人で踊るダンスに深く関わっていたのは、カンザスシティのリフミュージックだったし、フィリーソウルだった。時代が変われば音楽は変わる。

そしていまこの瞬間、世界を席巻している音楽。それが狭義のEDM(エレクトロ・ダンス・ミュージック)だ。

EDMという単語は、もともとハウスやテクノを中心とした踊りのためにある音楽を総称していた。ところが2017年現在、EDMというと狭義のほうを指すことのほうが多い。DJが音楽を供給するという点ではこれまでと同じだが、ストイックというより、もっとポピュラリティを獲得した、キャッチーなメロディを中心としたダンスミュージックだ。元来のDJカルチャーを中心に置いて考えたときの、伝統的な系譜とはややベクトルを異にしたもので、従来のハウスやテクノファンからは「あんなものはDJではない」とすら言うひともいる。

音楽が変われば、ダンスのあり方も変わる。

クラウドがEDMという空間にもとめるのは、演出だ。一晩のなかでストーリーを紡ぐ、というDJカルチャーの中心にあった考え方はEDMではあまり重要ではない。EDMが追求するのは、今、この一瞬の盛り上がりをどう演出するか、という視点だ。

EDMのパーティ(というより中心的な場所はフェスに近いが)では、曲が変わったタイミングでクラウドに「今から何の曲が流れるか」を想起させ、そのフック(Hook、要はサビ)のメロディで、テンションをその都度最大値までブチ上げることを狙ってDJをする。その瞬間にカタルシスをもってくるのが最大の特徴だ。一見すると、一晩中踊り明かすというコンセプトのダンスとは真逆に見えるかもしれない。ただしある意味では、カタルシスの微分化ともいえる方向性を追求した結果でもある。

クラウドは踊り続けることよりむしろ、楽曲ごとのカタルシスを求めて音楽的な空間のなかを漂っている。そこではDJは王様であり、神の手だ。そしてDJを崇拝する様子は、伝説のロックミュージシャンに対峙しているような光景ですらある(もちろん従来のハウスやテクノだってEDM的なそういう瞬間はあるが)。

名古屋にいたとき、一度エレキコミックのやついちろうがDJをしているところを観たことがある。世代としては馴染み深いtrfの、確か「Survival Dance」を流していて、一斉に座らせた状態からサビでジャンプさせたり、「なんだかSLIPKNOTが「SPIT IT OUT」演奏してるみたいだな」と思った(おんなじこと思ってるひとがいた)。

卵が先か、鶏が先か。EDMとその空間におけるダンスは、これまでとはまた違ったものとして生まれていて、そして既にポピュラリティを獲得したものとしてある。それが良いか悪いか、という判断を僕はしたいわけでもなく、その状況をシニカルに眺めていたいわけでもない。ダンスがどこに向かっていくのか、EDMを流れの中で生まれたひとつの経由地として捉えながら、音楽全体をもっとダイナミックで動的なものとして楽しむこともできると思うのだ。だから僕はこの記事を書こうと思った。

そしてダンスミュージックはこれからも、誰かがどこかで更新し続けるものなんだろう。

僕はそれが、とても楽しみだ。

 

参考文献

 

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