DJ機材、DJコントローラーから、DJの歴史まで

ハウス生誕の地であるシカゴという街は、90年代以降ダンスミュージックの中心地としての地位を、他の地域に譲り渡したと言っても過言ではない。とは言いながらも、シカゴの功績というのはとても大きくて、ハウスと名の付く様々なジャンルを生みだしたし、それらを通じて世界のダンスミュージックは進化していったというのも事実だ。というわけで、この「ハウスミュージックの歴史」後編では、派生して誕生した、様々な名曲や、関連するDJの話題を中心にまとめてみたい。

ハウス誕生の歴史についての「前編」はこちら

ジャックからオリジネイターへ

In the beginning there was Jack …

ハウスミュージックは当初、制作者はみな素人だったし最初のハウスレコード「On & On」を参考にしていたので(詳細は前編の歴史篇で紹介)、それはまあ言ってしまえば様々な楽曲を頂戴しながらの切ったり貼ったりといったことが一般的だった。「On & On」なんて、制作したJesse Saunders曰く盗作みたいなもんだった。

最初“On & On”には作者のクレジットはなかった。何故って、それはDJのレシピのつもりで作ったからだ。塩やコショウに作者のクレジットがあるか?自分でDJするときに使うために作ったものなんだ。しかもあれは海賊版だ。B面はオリジナル“On & On”で、ベースラインは“Space Invaders”から、それにDonna Summerの“Bad Girls”のループ、ホーンは“Funky Town”からのもの。要は“Planet Rock”みたいなものさ、みんな他から持ってきたんだ。A面はMichael Jacksonの“Don’t Stop Until You Get Enough”やSérgio Mendesなんかのメガミックス。それが最初の“On & On”だよ

– – – Black Machine Music & GALACTIC SOUL

「Planet Rock」というのは、HIPHOPという名前を提唱したAfrika BambaataaというニューヨークのHIPHOPアーティストによる1982年の曲。

HIPHOPでは他の楽曲から引用することをサンプリングと呼ぶのだけれど、初期のハウスシーンではそれは「ジャック」という呼び方をする。「ジャック」は初期のハウスのなかによく出てくるフレーズで、楽曲のタイトルになったり、DJの名前にも入ることがある。ジャックとは他の(ときには盗用でもあったりするが)楽曲をサンプリングすることであり、音楽を流し込むためのプラグのことでもあり、転じて性的な意味や「うまくやる」という意味もある。歌詞にもよく出てくる、たとえばこんな感じだ。

In the beginning there was Jack … はじめにジャックありき …

創世記の一節のようにも聞こえるそのフレーズは、Chuck Robertsの「MY HOUSE」という有名なサンプリングフレーズ。それは今では「CAN YOU FEEL IT」という名曲に被せられたSpeech ver.のセリフとして知られている。「CAN YOU FEEL IT」の誕生は、ハウスという音楽がムーブメントから一種の指向性をもった歴史的なターニングポイントだ。そのスタート地点のひとつが、Larry Heardであり、DEEP HOUSEだ。

DEEP HOUSE – “CAN YOU FEEL IT”

いま現在一般に思われている、ハウス=洒落たイメージというのがどこから出てきたのか?という問いに答えるとしたら、DEEP HOUSEが発端だと言い切って間違いない。

アメリカの各地では圧倒的にヒップホップが流行っていた頃、シカゴのラジオではハウスミュージックが流れ、1981年からスタートしたラジオ番組「HOT MIX 5」がその盛り上がりお昼時に伝えていた頃の話。

Frankie Knucklesが自身のクラブ「The Power Plant」をオープンさせた1983年当時、アマチュアトラックメイカーたちが制作した、チープなダンスミュージックのほとんどはカセットテープで流通していた。フロアでもテープを使ってミックスのなかに織り交ぜられていたし、Frankie KnucklesやRon Hardyに自作トラックを録音したテープを渡すというのが、自分の曲でみんなに踊ってもらうためにはとても重要なことだった。前編に登場したの作曲はJamie Principleの「Your Love」もレコードとしてリリースされる前からテープをダビングすることで流通していたトラックだ(だから初めてレコーディングされたハウストラックとして認められている)。

そんな状況のなか、他のトラックメイカーとは一線を画す楽曲を自作しはじめたのが、MR. FINGERSことLarry Heardだった。ハウスが豊かな音楽性を獲得した理由として、彼の「CAN YOU FEEL IT(1986年)」を挙げるミュージシャンはとてつもなく多い。

シンプルでいて心地よいベースラインのフレーズのループ。そこに力強く入るキックと軽快なハイハットは、元々バンドでドラマーをやっていたLarry Heardならではのシンプルさで、彼なりのダンスミュージックの新しい解釈、それがDEEP HOUSEだった。それは彼にとってのソウルミュージッックであり、ブルースだ。

Larry Heardがトラックを作り始めた頃、Robert Owensというシンガーを紹介されたが、彼はDJでもあった。そして結成されたのがFINGERS Incというグループ。FINGERS Incの制作したテープは様々なDJがいろんなクラブでかけ始めた。そして「CAN YOU FEEL IT(1986年)」が完成したとき、そのトラックはラジオから流れた。とあるラジオDJがキング牧師の演説とともに流したのだ。この一件で、一気に話題になってレコード化された。ちなみに、プレイにキング牧師の演説を流していたのは、Ron Hardyのスタイルで、Larry Heard、Robert Owens、そしてクラブからラジオ「HOT MIX 5」。それらの全てが奇跡のようにつながっていた。

イギリスの黒人評論家コドウ・エシュンは“Can You Feel It”を「20世紀のダンスフロアに対する問いかけだった」と言う。「曲名の“It”には目的に沿ったフィーリングも方向性も対象もポイントももたない感情がある。ミスターフィンガーズはあなたにフィーリングを感じよと要求している」

– – – BLACK MACHINE MUSIC & GALACTIC SOUL

音程すら感じるキックとハイハット、耽美的なメロディラインに影響を受けたアーティストは多い。そのなかには後にデトロイトでテクノというムーブメントを作り上げて世界的な規模にする、Derrick MayやCarl Craigもいる。

そうして、みなより洗練された音を求めて、ピアノやフルートの音を入れるようになる。

 

ニューヨークシーンとハウスDJたち

François K

さて、Frankie Knucklesの幼馴染だったLarry LevanもParadise Garageを1987年まで大成功させているが、ハウスムーブメントの影響はもちろんここにも流れ込む。音楽をこよなく愛し、ジャンルレスで音楽を繋げていくLarry Levanも自然とハウスクラシックとなる曲をプレイしていた。さらに言えば、ハウスの定番として使われるような曲は、ラリーも度々プレイしていた。

そうしてニューヨークで盛り上がりを見せた一部の名曲は、ガラージ・ハウスとも呼ばれる。

ところで、ニューヨークにおけるハウスのキーパーソンとしては、Larry LevanよりもParadise Garageでもプレイした経験があるFrançois Kのほうがよく挙げられる。

François KはハウスDJとしてニューヨークのクラブ黎明期からプレイしているDJ/プロデューサー。もともとはフランスからドラマーとしてニューヨークに来たものの、仕事がなく引き受けた仕事が「Galaxy 21」でDJに合わせてドラムを叩くというものだった。そのときDJをしていたのが、なんとWalter Gibbons。そのセッションで、ディスコに感化されたのがDJを始めるきっかけになった。François KのプレイはLarry Levanのようにジャンルレスで物語を感じるミックスが多くて、とても面白い。

François K、実際にクラブで会ったことあるんですけど、とても気さくなオッサンという感じで、ハウスからテクノ、タブに至るまで縦横無尽に音楽を繋いでいくのは、クラブで聴いていても楽しかった。

Louie Vega

プロデューサー界隈でもう一人挙げるとするなら“Louie Vega”。Kenny “Dope” GonzalezとともにMasters at Workというプロデューサーチーム名義をもっていることでも有名なLouie Vegaは、90年代を代表するトラックメイカー。Louie Vegaは若い頃、Paradise Garageとはまた違った趣の、ややガラの悪いクラブ「FUN HOUSE」のDJを務めてもいる。ちなみに、その前にFUN HOUSEでDJをやっていたのは、Madonnaのデビュー当時に公私にわたるパートナーとして、多くの楽曲のリミキサーとして活躍したJohn”Jellybean”Benitez。

Masters at WorkはMadonnaからJamiroquai、Brand New Heaviesまで有名無名を問わずにプロデュース業をこなしている。

特徴としては明るい女性ボーカルが入っているような、アッパーなハウスサウンドが持ち味。FUN HOUSE出身らしい、キックとハイハット強めな組み合わせの曲が多くて、ディスコにも通じるハウス全盛期のアップリフティングさが魅力。

 

ACID HOUSEの誕生とヨーロッパへの普及

DJ PIERREと“ACID SOUND”の発見

初期のハウスは黒人、とくにゲイコミュニティのものだったけど、ムーブメントから様々なハウスクラシックが量産され全世界に広がっていく。この世界への布教活動に最も貢献したのが、アシッドハウスとドラッグだ。

70年代からクラブとドラッグは蜜月の関係にあった。ニューヨークでも、シカゴでも、ストレスを発散する場所としてクラブとダンスミュージックは機能していたから、それは当たり前といえば当たり前な話だ。若い頃のLarry LevanとFrankie Knucklesは、ニューヨークのクラブ「The Gallery」で、客のジュースにLSDを入れるバイトをしていたぐらいだ。ただドラッグそのものをモチーフにしたり、ドラッギーなその感覚自体を音にしてしまうということは無かった。DJ PIERREがその音を発見するまでは。

その音は“アシッドサウンド”と呼ばれ、世界で初めて「Acid Tracks(1987年)」という形でプレスされた曲のなかに登場する。

Phutureとして活躍することになるDJ PIERREとEarl “DJ Spank Spank” Smith、そしてHerb Jacksonが発見したサウンド、それがかの有名な“アシッドサウンド”。実際には発見すると書いてしまうのは躊躇するぐらいの偶然で、酔っ払ってRolandのTB-303をいじっていたときに見つけた設定だった。TB-303は本来ベースの音色に特化したシンセサイザーだったが、三人は使い方が分からず、Rolandが意図しなかった使い方をすることで、その禁断の音色を見つけてしまった。

そのデモテープはThe Music BoxのレジデントDJ、Ron Hardyのもとに渡り、「Ron Hardy’s Acid Tracks」として、ドラッグでキマったダンスフロアをさらに昇天させた。その後Marshall Jeffersonのプロデュースのもと(DJがミックスしやすい状態にしたんだろう)130BPMから120BPMと、スピードが落とされ、デトロイトやヨーロッパをを中心に、全世界のドラッグまみれのダンスフロアで“アシッドハウス”ムーブメントを築いた。そして残念なことに、これ以降ムーブメントの中心地はイギリスややデトロイトに移っていく。

この頃、名前にAcidと名をつけたり、ドラッグとの関連性を暗喩したタイトルが大量にリリースされている。「Acid Thunder」「Acid Over」「Dream Girl」「Phantasy Girl」「Drug Store」「Stomach Acid」などなど・・・。

これらの楽曲にあるトリップ感覚には、Larry Heardの「Can You Feel It」のような思想性は無く、ただ快楽のみを追求した結果としてのサウンドでしかない。DEEP HOUSEがソウルフルな黒人のエモーションを表現したものだとしたら、ACID HOUSEは一切の思想性を排除し、享楽性のみを追求した音楽だ。そして、だからこそヨーロッパの白人でも受け入れることができた。ドラッグでキマってたら、なおことだ。

The Haçienda in Manchester -ロックとダンスの邂逅-

イギリスにおけるアシッドハウスムーブメントの話をする前に、何でイギリスなのか?という理由について触れてみよう。

ヨーロッパにおけるハウスムーブメントを語るなら、真っ先に言及するべき街はロンドンではなくマンチェスターだ。過去の記事でもイギリスには言及している(e.g. イギリスにおけるその後のダンスシーン)わけだけど、イギリスが何故ダンスミュージックの中心地に躍り出たのか?という理由の一つとして、マンチェスターという都市が果たした役割はかなり大きい。

マンチェスターは、イングランド北西部に位置する、イギリスでは9番目の都市で、もともとは繊維関係や日用品を製造する工場や倉庫が多かった。80年代後半に産業が息を吹き返すまで、工場や倉庫は無人で空き地が多かったのだけれども、これが後のパーティムーブメント、いわゆるレイブにつながっていく。

“Madchester”とも呼ばれるムーブメントを牽引した震源地、それがクラブ「The Haçienda」。

マドンナがイギリスで最初にライブを行った場所でもあるThe Haçienda。1982年5月にオープンしたそこは、最初はライブハウスだったこともあり、地元のバンドはみな最初はそこで演奏した。Happy MondaysにThe Stone Roses、そしてOASISも。そしてここは最初にハウスをかけたクラブでもある。後にはThe Chemical BrothersもThe Haçiendaのブースに立った。

The Haçiendaは別名をFAC51と書き、これはクラブを運営したレーベル「Factory Records」のカタログ番号を意味した。Factoryは他にも訴えられた訴訟とか、本社の社屋とか、ハシエンダに居た猫とか、あらゆるものにカタログ番号をつけていて、ちなみにFAC1はポスター。

Factory RecordsはTony WilsonとAlan Erasmusによって1978年に設立され、The Haçiendaは1982年にオープン。そして1983年にこのクラブとレーベルの方向性を決定づける曲が全世界でヒットした。それがNew Orderの「Blue Monday(1983年)」。

こうしたロックというか、パンクが電子音楽に接近した結果生まれたこのサウンドの前身としては、Talking Headsの「Once In a Lifetime(1980年)」なんかも挙げることができる。ちなみにこれらはどちらもParadise Garageのクラシックナンバーだ。

Factory Recordsは、New Orderといったバンドのレコーディングをしていた際、プロデューサーとして呼んでいたArthur BakerがデモテープをFUN HOUSEで流しているのを見て、The Haçiendaをつくることを思い立ったそうだ。Afrika Bambaataa「Planet Rock」のプロデューサーであったArthur Bakerは、フロアの反応を見るのがヒットへの一番の近道であることを知っていた。

こうしてマンチェスターの夜にはThe Haçiendaという格好のダンスフロアが用意され、そこに直撃したのが、例の「Acid Tracks」とエクスタシーと呼ばれるドラッグだったというわけ。このクラブに関する紹介は、以降「24 Hour Party People」という映画に任せるとしよう。

 

“Rave” & “Ecstasy” in the UK

マンチェスターでは、The Haçiendaをはじめとしたクラブが盛り上がってはいたけど、致命的な弱点があって、「法律では26時までしかクラブは営業できない」という点だ。中途半端な時間に路上に放たれたクラブ・ピープルたちは、空き地でパーティーを続けることを思い立った。

そこで朝まで踊りたいクラバーたちが始めたのが、「レイブ」だった。レイブは倉庫や屋外スペースを不法に間借りしておこなうパーティーで、工業都市群のひとつである北部にいたクラバーたちにはうってつけのイベントスペースだったのだ。そこではハウスのなかでも、もっととんがった「アシッド・ハウス」が爆音でかけられ、ほとんどみんなラリってた。

– – – 音楽が鳴りはじめ、ダンスが生まれる -What to PlayのDJ論-

こうして生まれたのが「レイブ・ムーブメント」であり、88年から89年にかけてイギリスで起こった社会現象「セカンド・サマー・オブ・ラブ」だ。代表的な名曲をひとつ挙げるとするなら、アシッドハウスではないけど、Orbitalの「Chime(1989年)」。

Orbitalは、Paul HartnollとPhil Hartnollという兄弟によるイギリスのユニットで、この曲はレイブ真っ盛りの時期にリリースされた。1990年にはLil Luisが「French Kiss(1989年)」をリリースしたFFRRからも再イシュー。アシッドサウンドのビコビコ音が無いので、ハウスというよりテクノ色が強いし、実際Orbitalはテクノミュージシャンとして認定されている。

あと、レイブカルチャーとは切っても切れない関係にあるのが、時を同じくしてイギリスの若者を席巻したドラッグ。それは正式名称を「MDMA」またの名を「Ecstasy」と呼ばれた多幸系のドラッグで、古くは軍で自白剤にも使われていたものだった。研究者はこの摂取効果を「他者とのつながりを強く感じさせる」と報告しているほど、強い幻覚効果があった。ドラッグの効果もあいまって、レイブに集まった人々は、ひたすら踊りながらつながりあっていた。

これまでのイギリスでは、クラブはある程度人種や階級によって暗黙の線引きがあった。でもレイブは違う。それは、その時間まで踊っていた別々のクラブが店閉まいした後に集まるもので、人種や性的嗜好も関係ないもので、皆「朝まで踊り明かしたい」という一点において目的を共有していた。「踊る、ダンスする」という点において、垣根を超えたゆるい連帯感すら感じることができるようになっていた。

– – – 音楽が鳴りはじめ、ダンスが生まれる -WHAT TO PLAYのDJ論-

まあ当たり前なんだけど、ドラッグにふけって朝まで爆音で踊りまくるみたいなことを、真面目な大人が黙って見ているはずがない。事実、イギリスの国営放送局BBCでは、それまでダンスミュージックを流してはいたものの、“Acid”という言葉を使った楽曲を軒並み放送禁止にした。そして1994年には、イギリスでは「Criminal Justice and Public Order Act 1994」という法案が提出され、最終的にはイギリス女王がサインすることで制定される。これは、またの名を「レイブ禁止法」とも呼ばれた。これはほとんどレイブを禁止にするための内容で、無許可で屋外で規則的に反則するビート(repetitive beats)をもった音楽をかけて、複数人が集まってはいけないというもの。

この法律に対してはもちろんデモによる反対活動とか、Orbitalもアンチソングを制作していて、業界からは反発されたわけだけど、まあ大前提ダメなことしてるわけなので禁止されても仕方がないといえば、そうなのかもしれない。

またレイブ終焉を法律のせいにするというよりも、パーティー自体が商業化されたために廃れていったというひともいる。大物DJを呼び、スポンサーをつけてクリーンな状態で大々的に催された商業的なパーティーは、もはや初期の音楽好きが集まるレイブとは違って、騒ぎたいだけのクラウドが集まったものだ。そうしてシーンを支えていた音楽フリークたちは次第にパーティーから離れていったというのも、半分ぐらいは事実だろう。換骨奪胎されたパーティ。その延長線上にあるのがEDMのフェスなのだとしたら、古き良き時代を好む往年のファンが、EDMを目の敵にする気持ちも、まあ分からないでもない。

New Orderとともに一時代を築いたFactory Recordsは、レイブ禁止法が制定されるちょっと前、1992年に倒産。そうして運営元が変わったThe Haçiendaも、1997年には閉鎖した。マンチェスターの真のパーティーはここで完全に終わった。

 

HOUSEとTECHNOの接点

HOUSEに感化された重要人物

シカゴで生まれ、イギリスで飛躍したハウスミュージックは、その後シカゴでは廃れてしまったとはいえ、同時代のエレクトロミュージックとともに多大な影響を与えた。真っ先に思い浮かぶのはデトロイトのテクノへの影響だ。

テクノはシカゴから目と鼻の先にある、ミシガン州のデトロイトで生まれた音楽で、その黎明期に音楽を制作していた重要人物が三人いる。それがThe Belleville Threeとも呼ばれる、Juan Atkins、Derrick MayそしてKevin Saunderson。三人は学生時代からの友人だった。Juan Atkinsはシカゴのハウスシーンを「おかまディスコ」と揶揄していたそうだけど、Derrick Mayは母親のいたシカゴで人気となっていたFrankie KnucklessやRon Hardyのプレイに圧倒されたとインタビューでも語っている。

おれはね、この際だからはっきり言うけど、おれ自身はシカゴハウスの一部だと思っていた。ホアン・アトキンスこそがデトロイトだった。ホアン・アトキンスがデトロイトのエレクトロを作り、テクノを作った。おれはシカゴに出向いた。そしてシカゴ・ハウスの洗礼を受けた。それを未来だと思った。しかし、ホアンはテクノを作りたかった。テクノがホアンの未来だった。おれはダンス・ミュージックを作りたかった。シカゴ・ハウスを自分なりに解釈した、ハウスのレコードを作りたいと思った。今でもDJプレイのときシカゴ・ハウスを主体にかけるのは、つまりはそういうことさ

– – – BLACK MACHINE MUSIC & GALACTIC SOUL

シカゴハウスに傾倒していったDerrick Mayは、Frankie Knucklesに自分のTR-909をプレゼントしてもいる。そうして完成させたのが、Derrick Mayによる「Strings Of Life(1988年)」これはRhythim Is Rhythim名義でリリースされた。

「Strings Of Life(1988年)」に登場するピアノの戦慄は、こうして聴いてみると確かにハウスかもしれない。

The Belleville ThreeのKevin Saundersonもそうだ。もともとニューヨークにいた彼は、Paradise Garageに客として通っており、Derrick Mayの衝撃からほどなくして、彼もシカゴに傾倒していくことになる。もっと言えば、イギリスのレイブシーンをアシッドハウスからテクノへ進化させたのもデトロイト勢だ。そうしてシカゴのハウスは、デトロイトのテクノ、ニューヨーク、そしてイギリスのシーンと意図せず繋がっていく。

HOUSEとTECHNOにおける志向性の違い

Derrick Mayのインタビューはいろんなメディアに出ていて面白いのだけれども、一番興味深いところはドラッグをやらなかったことだ(多少は手を出したこともあるのかもしれないけど)。Derrick Mayはピュアな眼差しで、荒廃したデトロイトにはない生気を、シカゴのハウスシーンに見出し、そこに魅了された。

ハウスシーンを「おかまディスコ」と揶揄したJuan Atkinsも、興味があったのはダンスすることそれ自体ではなく、音楽制作に対するとても純粋な志があった。そうした思想性は徐々に衰退していくシカゴシーンとは一線を画していて、ある意味思想的な連帯感みたいなものがデトロイトのテクノ勢にはある。このテクノ界隈の思想性という話も、とても面白いのだけれども、それはまたテクノの歴史を紐解いていく際に紹介しよう。

DJ, Artist, CLUBで繋がるHOUSE MUSICの歴史 前編はこちら

 

参考

・clubberia Artist(Larry Heard|Lil’ Louis|François K)

・Wikipedia(The Haçienda|Factory Records|Madchester)

 

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